鈴木 直登(すずき なおと)さん/「東京會舘」日本料理顧問(前総料理長)

鈴木直登

COREZOコレゾ「美味しいだけでなく、食と健康や環境を含め、食全体に関心を持つことが大事と、原材料、調理器具、器他の生産現場を訪れて学び、伝統技法を探求、昇華して、料理に命を吹き込む技を後世に引継ぎ、社会貢献にも取り組む、日本人の心と食文化を伝える料理の匠」賞

鈴木 直登(すずき なおと)さん/「東京會舘」日本料理顧問(前総料理長)

鈴木直登

プロフィール

1953年新潟県生まれ。

1974年より東京會舘「日本料理八千代」に勤務。

日本料理総料理長、調理・製菓部部付部長

2009年東京都優秀技能者「東京マイスター(江戸の名工)」受賞、2013年厚生労働省「卓越した技能者(現代の名工)」表彰

2014年、文化庁長官表彰

2019年、黄綬褒章受章(農業・商業・工業など業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する個人に授与される表彰)

2025年、旭日双光章受章(国家または公共のために顕著な功績をあげた方に贈られる日本の勲章の一つ。旭日章の中で第5等にあたる)

著書に「東京會舘おせちと節句料理」(平凡社)。

東京會舘  鈴木直登さんの旭日双光章受賞記念の包丁式と食事会

雅楽の生演奏の中、「包丁式」が披露されました。
「祝いの鯛」、包丁と箸だけで鯛をさばき、見事、「祝」の文字がまな板のうえに描かれました。
言うまでもなく、包丁式の後の食事会も素晴らしいもので、
このような式典と食事会に参加できて、心より感謝です。

動画

東京會舘 日本料理 鈴木直登さん(その1)「料理人への道」

東京會舘 日本料理 鈴木直登さん(その2)「料理人修行時代」

東京會舘 日本料理 鈴木直登さん(その3)「企画して営業する料理人」

東京會舘 日本料理 鈴木直登さん(その4)「総料理長勇退後にやりたいこと」

東京會舘 日本料理 鈴木直登さん(その5)「コロナ禍にできること」

東京會舘 日本料理 鈴木直登さん(その6)「料理人としての喜び」

東京會舘 日本料理 鈴木直登さん(その7)「おせちと節句料理」

東京會舘 日本料理 鈴木直登さん(その8)「栗(芋)きんとんの極意」

受賞者のご紹介

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ヤマサちくわGEN−Bの会

鈴木直登さんは、東京会館の和食総料理長。

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2017年10月、東京の如水会館で開催されたヤマサちくわさんの「GEN−Bの会」で、お料理を担当されていて、その催しを企画された堀田雅湖さんからご紹介いただいた。

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失礼ながらどのような方か、全く存じ上げなかったが、そのお料理の美味しさはもちろんのこと、にこやかに料理の内容を説明されている柔和な表情の中にも料理や食材に対する真摯な姿勢を強く感じた。

そして、2018年秋には、堀田さんがアドバイザーをしておられる新潟県村上市の食材プレゼンテーションイベントで、村上市ご出身の鈴木料理長が地元食材を使った料理の実演をされると聞きつけ、参加させてもらった。

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炊き立てのご飯とは?

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「皆さん、炊き立てのご飯って、どんなご飯かご存じですか?ご飯を炊いた釜から直接、茶碗によそったのは、炊き立てのご飯ではありません。」

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「日本の炊きたてご飯っていうのは、炊いたご飯を釜からおひつに移して、おひつに余分な水分を吸わせてから、茶碗によそったのを炊きたてのご飯、って云うんですよ。おひつに移すことによりご飯の粒が立ち、茶碗にくっつかないんです。」

「ご飯が冷めると、おひつの木が吸った水分は、ご飯に戻されるので、パサパサにならず、冷めてもおいしくいただけます。」

「昔の人の知恵はすごいですね、今やもう、お米を作っている人もおひつを使ってないのでこんなこと知りませんよ。」

というような話をされたのだが、今どき、料理人と云えど、おひつの話をされる方には、滅多にお目に掛からない。

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郷土の食材をどれも我が子のように愛おしそうに紹介され、終始、楽しそうに調理されたのだが、鈴木料理長の知恵と技によって、それらの食材に新たな命が吹き込まれ、次々と、美味しそうな料理に変身していく現場を拝見することができて、とても貴重な経験をさせてもらった。

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満漢全席の熊の手

2019年秋、新潟県村上市の食材プレゼンテーションイベントにお越しになっていた鈴木料理長に再会し、三度目の正直で、東京會舘の日本料理「八千代」にご紹介下さった堀田さんと伺い、料理長のお話しを伺うことができた。

東京會舘は、1922(大正11)年、東京商工会議所の前身である、東京商業会議所の会頭ら当時の財界の重鎮たちが、 日本の国際的地位の上昇に伴い、わが国にも欧米先進国に通用する国際的な社交場が必要との思いから、 創業し、3代目となる現在の丸の内本舘は、建替え工事を経て、2019年1月にグランドオープンした。

 最近、オーダーがあって、引き受けたと云う、満漢全席で出される、熊の手の調理から、鈴木料理長のお話しが始まった。 

かつて中国料理の料理人をしていた筆者の父親がバブル景気(1986~1991年頃)の最中、仲間たちと中国に行き、山海の珍味を三日三晩かけて食すと云う、満漢全席で、熊の手を食べたと話していたが、実際の調理の話を聞くのは初めてだった。

「知り合いにお願いして、猟師さんが獲った熊の手を送ってもらうことができましたが、熊の生態なんか知りませんし、熊の皮膚がどうなっているのかもわかりません。文献等で調べながら、下処理に取り掛かりました。」

「手の周りに生えている毛は3層になっていて、1番表面に出ている毛は、毛根が浅いので、案外軽く抜けるんだけど、2層目は、皮膚から表に出てる部分と同じ位の長さが中に入っているので手間がかかり、一番皮膚に近い産毛は、出てる部分の倍以上が体内に入っている上に、びっしりと生えていて、これを全て毛根ごと抜かないと、口に入れた時にそれが当たって食感が良くありません。」

「下茹でしてから、エステサロンで使うような高級な毛抜きを使って、1本、1本、根気よく抜くのですが、掌1本処理するのに、1週間ぐらい掛かり、ウチの若い人たちは、二度とやりたくない、って云ってますよ。でも、彼らは、まだ自分の目で見えるからいいですよね、私なんか、ルーペが必要で…。一度に全部は処理できないので、2本ぐらいづつ、16本全部やるのに、1ヵ月半かかりました。」

「毛を抜くのが面倒だからと云って、皮を剥いでしまうと、コラーゲンがたっぷりある部分も剥いでしまうことになるので、栄養も食感もなくなってしまいます。きれいに下処理が終わると、熊の掌は、人間の赤ちゃんの手足より、柔らかかったですよ。」

「そのあと、更に茹でるののですが、茹で過ぎると身が崩れてしまうし、茹で方が短いと骨が抜けないので、見極めが難しく、やっているうちに分かってきたのですが、絶妙な茹で時間にすると、骨がスポっと抜けるようになります。身が崩れていくので、水の中でやらないとダメなのですが、温度が大切で、ぬるま湯よりも少し低い位の温度、27、8度ってところでしょうか、それより高いと脂が溶け出してしまうんです。大体これぐらいだろう、と云う目途をつけておいて、何度かやっているうちに上手くいく温度がわかってきました。」

「骨を抜く際に、指や掌を破ってしまうと値打ちがなくなるんで、慎重に指の骨も全部抜くと、手の内部が空洞になって、手袋のようになります。これを更に煮込んで、味付けは、金華豚の塩漬け肉で塩味をつけ、煮汁を煮詰めて少量の醤油で味を調え、とろみをつけて餡にします。お客様には、熊の手そのものをお見せしてから、食べやすい大きさにカットして盛り付け、先程の餡をかけて提供します。熊の爪は、熊の手を食べた方におまじないとして差し上げるのだそうで、そのようにしました。」

熊の手 「この熊の手の料理は、秦の始皇帝の頃にはあったようで、その時代には、金属の毛抜きのような道具もなかったでしょうから、どのようにして毛を抜いて下処理をしたのか、冷蔵庫もなかったから、私たちのように1週間も掛けられないですよね、その頃の料理人たちがどんな仕事をしていたのか、できることなら、見たいものです。」

子供の頃の夢

 「中学生の頃はプロスキーヤーとか、ダイバーとかになりたいと思っていました。日本にはいたくなかったと云うことだけは確かですね。」

「とにかく、海外に出て、仕事をしたかったですね。この東京會舘に就職してからも、25歳ぐらいまでは海外に行きたい、行きたい、と思っていましたので、何度かハワイに行ったりして、ハワイで仕事をしたいなぁ、とか思っていました。」

料理人になった経緯

「中学を卒業してまもなく1人で東京に出てきて、知り合いの方の紹介で、住むところも用意してくれると云うので、埼玉のラーメン店で働き始め、牛乳配達や新聞配達も掛け持ちして、定時制高校に通いました。」

「そんな生活を2年ぐらい続けましたが、全く自分の時間がなく、サラリーマンの生活もいいかなと思い、所沢にある、車両とか建材とかを作っている産業機器のメーカーに転職し、そこで3年ぐらい、新幹線や鉄道車両、ビルの窓等を作って、溶接やクレーンの免許を取り、玉掛け技能も習得しました。」

「字もロクに書けなかったのですが、一念発起して、高校2年の時に結構勉強しました。ある程度努力をして、自分の将来のいろんな方向性を考えた時、学歴は大事で、学歴で企業の待遇も違うし、手に職をつけようと思いました。」

「料理は嫌いではなかったので、自分の腕一つで食べていける料理人もいいなと思って、ラーメン店で働いていた時に調理師免許は取得していましたが、定時制高校卒業後、就職に有利になるだろうと、夜間の調理師学校に入学しました。」

「その調理師学校には、結構、真面目に通って、成績も悪くなかったので、国立第二病院と三鷹の保健所の2つの就職口の合格が出ていましたが、校長先生が東京會舘に推薦して下さり、私の同級生が東京にいたので、東京会館に就職しようと思っているんだけど食べに行ってくれないか、と頼んだら、俺なんて行けるところじゃないよ、って断られちゃって…。」

「とにかく、行くだけは行ってみようと、面接に行ったら、ウチのような会社だと、調理の社員は、日本料理なら日本料理の親方の了解が出ないと、人事の人だけでは採用できないんですよ。それで、日本料理のお店に連れて行かれて、まぁ座りなさい、って云われて、中に当時の親方が立っていたカウンター席に座わると、土瓶蒸しとか、それまでに食べたことない料理ばかり、隣に座っていた80歳ぐらいのご老人と一緒に食べさせてもらったんです。」

「で、そのご老人は、後になって知ったのですが、カウンターの向こうに立っていた親方の更に親方に当たる方で、業界では超有名な料理人だったんです。食事中もカウンター内の親方とあれこれ話をしていて、最後に、人間と云うのは、出会いを大切にしないといけないから、使ってあげなさいよ、と云って下さって、明日から来なさい、と云うことになった。」

毎日が徹夜で辛かった修業時代

「その時、私も何気なく、ハイ、って云ってしまったんで、引っ越しの準備も何もしてなかったのですが、とにかく次の日から店に行って、そのあと1週間位で、前の会社の退職手続きや引っ越しを終わらせて、たまたま料理人になってしまったようなことなんですよ。こちらに採用されていなかったら、保健所に就職して食品Gメンをしていたかもしれません。」

「1年ぐらいは右も左もわからず、がむしゃらに働きましたが、辛いの、なんのって…。洋食のコックさんは250人ぐらいいたけど、日本料理の料理人は6人しかいなかったので、それは寝る暇もない程、忙しくて…、毎日徹夜ですよ。何とか片付けを終えて、職場で仮眠をとって、夜が明けるとまた仕事という、生活が10年ぐらい続きました。」

「ここの仕事が辛いもんだから、皆んな、どんどん辞めていくんで、21 歳で入って、29歳の時には、ここの責任者になったんですよ。今、考えると、28、9の若造がこんな店で大きな仕事をするっていうのは、怖い話で、今じゃ考えられないですよね。洋食の料理長の皆さんは、50歳以上の方々ばかりだったので、料理長会議とかに出ても同等には扱ってもらえませんでしたが、今、その頃の料理長たちが来てくれると、あんた、よく頑張ったね、って云ってくれますよ。」

結局、海外には行けなかったが、育ててくれた会社に奉公

「本当は、5~6年いて、技術を覚えたら海外に行こうと思っていました。何度か、今度こそは辞めようと、決心して親方のところに行った時には、いつも忙しそうにしていて、他の人にバカヤロー!とか云って、すごく怒っているんですよ。そんな時に辞めたいとは云いづらいなぁ、とか躊躇していると、鈴木、ちょっと来い、とかって云われて、こういう風にやれっていったんだけど、できねぇんだよ、とやり方を見せてくれて、わかった?これ、ちょっとやっといてくれよ、って云うんですよ。仕事を教えてもらって、それを任されちゃうと云い出しづらくなりますよね。」 

「今になって思うと、辞めるって来たんじゃないか、と察した親方が、そういう風にしていたのかもしれませんが、結局、一度も辞めるとは言い出せなくて、そのうちにここの責任者になると、やることがさらにいっぱいできて、辞める機会を完全に失ってしまい、自分の下を育てるしかなくなってしまったんです。」

「あなたがもっと自由に動けるようにと、調理部の部長にしてもらったのですが、それには、とても感謝していて、そのご恩に報いるよう、私自ら、いろんな企画や営業をして、毎年1000人のお客さんを自分の力でこの店に呼んで来る、『ゲット1,000』をずっと続けています。」

食と健康、食と環境

「私のお客様には、医師の方々が多く、いろいろなお話しを伺ううちに、人間の身体は食べるものからできているので、必然的に、食と健康を考えるようになり、美味しいだけでなく、食べて健康になるお料理を提供したい、と取り組むようになりました。」

「冒頭、お話しした熊の手もそうですが、人間は、どうしてこういうものを食べ始めたのか、どのように調理されていたのか、自分たちが調理をする食材や素材がどのようにしてつくられているか、育てられているか、採られて(獲られて)いるのか…、ということがすごく気になっていまして、それで現場を見に世界中に出かけて行くのですが、地球環境の変化によって生態が変わってきているのを目の当たりにして、疑問に思うことがたくさんあります。」

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「食事の際、ただ、安いか高いか、手軽か手間がかかるか、美味しいか不味いかだけでなく、食全体に関心を持つことが大切で、今食べている米や野菜、肉等の食材がどこから来て、どのようにつくられているかを考えてみて下さい。それだけでも、私たちが毎日食べている食を取り巻く環境や状況がどうなっているのか、随分、違って見えてくると思います。食事の後片付けに合成洗剤を大量に使えば、環境に負荷を与え、ひいては、私たちの食べ物にも悪影響が及ぶことぐらいは、誰にでも想像できるようになるのではないでしょうか?」

カンボジアの子供たちへの支援

「カンボジアでは、飲み水にも困っている子供たちがいます。生活環境は、本当に大事だし、教育を受けられないっていうことが生きていく上でどれだけ困るかっていうのは、身に染みてわかっているので、お客様の事務用品メーカーの社長さん達に、商品にならないような鉛筆でもいいので分けて欲しい、とお願いしたところ、ちゃんとしたものを用意して下さって、そんなカンボジアの子供たちへの支援も5年ぐらい続けています。」

「その他に、カンボジアの子供たちのために『ものづくり学校』をつくろうと、賛同する仲間たちとお金を出し合い、財団を立ち上げて、土地も用意し、準備を進めています。彼らは職がなくて困っています。今の日本の若い人で、料理人や仕事がきつい職人になりたい人なんていませんから、技術を身に付けて日本に来てもらえれば嬉しいですね。」

「近い将来、僕も1年のうちの何ヶ月かは、包丁の研ぎ方、魚のさばき方を始め、料理の仕方や技術他をカンボジアの子供たちに教えたいと思っています。」

過去を見つめ直すことも大切

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「私でお役に立てることなら、趣旨に賛同できれば、調理師学校での料理人の卵の指導だけでなく、小学校での食育を始め、地方の食材活用というテーマでの講座とか、できる限り引き受けています。」

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「漆器と言う文化も世界に誇れる日本のすごい文化なんだけれど、今、なかなか使ってもらえないですよね。陶磁器は、元々、大陸から伝わったものだけど、この文化も大事なものなのに、今や百均の茶碗で済ましてしまう人が多くて、料理の仕方だけでなく、おひつの話もそうですけど、ちゃんとした食材をちゃんと料理して、ちゃんとした方法、器、ちゃんとしたもので食べましょう、と云うようなこともお話ししています。」

「陶磁器をつくっている皆さんに、自分たちが作った陶磁器でご飯を食べていますか?って尋ねると使っていないんですよ。使いもしないものを作って、誰に使ってもらうんだよ、と云うことで、有田焼で有名な有田で、江戸時代の器や人間国宝が作った器、現代作家の器で料理を作ったりして、3年ぐらい交流をしてきました。」

「粘土を濾過をする技術、焼く技術他、江戸時代より現代の方が優れていることも多いのに、白磁は、なぜ江戸時代のものの方が価値が高いのか、つくる人も、売るひとも、使う人も、正しく知らないといけません。それを理解しているか、いないでは、大きな違いがあります。」
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「私は、縄文時代から現代に至るまで、いろんな時代、いろんな地域の料理を研究し、再現してきましたが、そこから学ぶことは多く、今だけでなく、これから先にも役立つ知恵がたくさんあります。」

「今までの親方たちの仕事は、後世に残せていませんでしたが、自分たちの持っている技を少しずつ公開しながら、残せるものは残していかねばなりません。」

「業界の人たちだけではなく、広く一般のいろんな人にも、江戸時代は、こんな料理をしていたんだよとか、昔の料理を再現することで、過去を見つめ直すことも大切だ、と云うことを伝えていきたい、と思っています。」

 

COREZOコレゾ「美味しいだけでなく、食と健康や環境を含め、食全体に関心を持つことが大事と、原材料、調理器具、器他の生産現場を訪れて学び、伝統技法を探求、昇華して、料理に命を吹き込む技を後世に引継ぎ、社会貢献にも取り組む、日本人の心と食文化を伝える料理の匠」である。

 

最終取材;2019年10月

最終更新;2025年11月

文責;平野龍平

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