倉田 浩伸(くらた ひろのぶ)さん/カンボジア産クラタペッパー

COREZOコレゾ「内戦で壊滅状態だった、世界一と称された幻のカンボジア胡椒を、伝統的な無農薬・有機肥料の農法、製法で復活し、産業復興に人生を捧げた男の生きざま」賞

倉田 浩伸(くらた ひろのぶ)さん

プロフィール

三重県出身

KURATA PEPPER Co.Ltd. 代表

受賞者のご紹介

カンボジア産・完熟コショウ

倉田浩伸(くらたひろのぶ)さんは、KURATA PEPPER Co.Ltd.の代表で、カンボジアの自社農園で胡椒を生産、加工、販売をしておられる。

2016年、名古屋のデパートの催事場で、堀田雅湖さんにご紹介いただき、お目に掛かった。

その時、倉田さんから勧められて購入した「カンボジア産・完熟コショウ」は、これまでの胡椒とは別モノの香りとウマさで、フルーティーな甘みまで感じられる。

クラタペッパーの「カンボジア産・完熟コショウ」は、樹で真っ赤に熟した実だけを一粒ずつ手摘みしておられ、2~30粒実るコショウの実の房のなかでほんの2~3粒しか採れず、1本の樹からだと、4~500粒ぐらいなので、30g入商品1袋分が採れるかどうかのとても貴重なもの。

どうして、全部完熟してから収穫しないのか、と疑問に思うだろうが、不思議なことに、完熟の実の方が美味しいからと、完熟の実をたくさん採ろうとすると、養分を吸い上げ過ぎるのか、土地がどんどん痩せて、樹がダメになり、かといって、肥料をやっても、樹が対応しきれなくて、枯れてしまうそうだ。

「クラタペッパーの胡椒の粒は、直径5.5~6㎜あり、一般に売られている胡椒より一回り以上大きいです。胡椒の花に寄ってくるハエがいて、花を舐められると、実がつかないので、農薬をかけます。ウチは、無農薬で栽培しているので、結実しない花もあるのですが、結果として、適度に摘果されたことになり、実が大きく育ちます。ハエが多過ぎると、獲ることもあるのですが、ほとんど放置状態でも、全滅するようなことはありません。ハエも来年のことも考えて(いないでしょうけど)、全部舐めてしまわないのでしょう。自然は偉大ですよ。」

「当然、大きい方が完熟した時には、糖分やうまみ成分が多くなります。また、年によって、実のでき方が異なるので、完熟胡椒は、きちんと保管して、時間が経過すると、皮の香り成分は揮発していきますが、うま味は増し、ワインのような楽しみ方もできるので、完熟胡椒のビンテージも商品化しようと考えています。」

胡椒の基礎知識

胡椒の歴史

胡椒は、東南アジア原産で、日本では、中国から伝わったので、胡椒と呼ばれ、天平勝宝8年(756)、聖武天皇の77日忌にその遺品が東大寺に献納され、その献納品の目録「東大寺献物帳」の中に胡椒の記載があり、当時の日本ではコショウは生薬として用いられていたと云う。

胡椒はその後も断続的に輸入され、平安時代には調味料として利用されるようになったらしい。

胡椒と唐辛子

唐辛子は、中南米原産なので、日本に伝わったのは、コロンブスの新大陸発見(1492年)以降、一説には、1542年とされるので、胡椒の日本伝来より800年近く後年になってから、と云うことになる。

唐辛子が伝来する以前には、山椒と並ぶ香辛料として現在よりも多用されており、江戸の初期に書かれた料理本には、うどんには胡椒と梅干が定番、と云う記載があるそうで、また、江戸後半には、薬膳として胡椒飯が普通に食べられていたという記録が残っており、現在でも、船場汁、潮汁、沢煮椀などの吸い物類を中心に、薬味として胡椒を用いる日本料理が残っている。

唐辛子は、その伝来当初、胡椒の類似品として「南蛮胡椒」、「高麗胡椒」などと呼ばれていたため、現在でも九州地方を中心に、唐辛子の事を「胡椒」と呼ぶ地域があり、ご存じのように、九州北部で製造される「柚子胡椒」は、胡椒ではなく唐辛子が原料。

胡椒の種類

胡椒の種類には、完熟の他、黒胡椒、白胡椒、グリーンペッパーがあり、全て同じ樹から収穫する実で、収穫の時期と加工法が異なる。

①     黒胡椒;胡椒の花は、6~7月に咲き、2~3月の実が熟す前の段階で収穫し、天日で干す、または、乾燥機で乾燥する(最近の主流)だけなので、比較的、簡単にできる。

②     白胡椒;完熟、もしくは半熟の実を水に漬けて発酵させ、皮をむいて天日干しをするので、手間が掛かる。クラタペッパーでは、収穫後、赤く追熟した実を熟練の職人さんが手作業で選別して使う。理由は、完熟程、糖分、うまみ成分は多くないが、追熟で糖分が生成されるため、発酵し易くなるそうだ。

③     グリーンペッパー;熟す前の生の実をフリーズドライ加工や塩水漬にしたもの。生産地のカンボジアでは、生のグリーンペッパーを野菜のように食べるらしい。

白胡椒のウソ

戦後、日本で普及した粉胡椒には、白胡椒が使われていたが、最近は手間が掛かって高価なので、黒胡椒を混ぜ、さらに、カサ増しのためにそば粉他を混ぜていて、本来、胡椒にはアレルゲンはないが、アレルギーが出て発覚したという話もあるそうだ。

クラタペッパーでは、特殊な方法を用いて、環境に負荷を掛けず、伝統的な製法で白胡椒をつくっておられるが、胡椒を水に漬けて発酵させると、強い酸性水になり、産廃の処理に費用が掛かるため、最近では、水に漬けるか、水蒸気を当てて皮を柔らかくして、発酵させずに皮を剥くだけの作業でつくっている白胡椒が圧倒的に多く、発酵して生まれる独特の芳香は、人工的なフレーバーを添加して補っているらしい。

胡椒の実態

ベトナム、マレーシア、インド等の胡椒の主要産出国では、一旦、国が買い上げ、ライセンスを持っている企業だけが取引できる方式を取っていて、価格カルテルがあり、主要産出国間で価格調整が行われているため、安値で買って、高値で売りたいので、どうしても在庫を抱えることになる。そのため、収穫が何年前か分からない胡椒も多く、長く保管された胡椒には、カビ臭のような倉庫臭が付き、燻蒸殺菌をするので、香り成分が飛んでしまう。

クラタペッパーでは、無農薬・有機栽培をしておられるが、胡椒を有機栽培しているのは、カンボジアとスリランカぐらいで、カンボジアでの有機栽培は全生産量の2%程度らしく、日本の場合、輸入農作物の残留農薬基準が厳しいので、海外でミックススパイスに加工したり、チキンにスパイスを付けて冷凍食品等に加工してしまうと、残留農薬基準の適用を受けなくなるそうだ。

倉田さんがカンボジアで胡椒づくりを始めた動機

「1985年、高校生の頃、映画『キリング・フィールド』(1984 Warner Bros.英)を観て、どうして大量虐殺がおこるような激しい内戦が起こってしまったのか、カンボジアで何が起こっているんだろう、という興味を持ち、カンボジアへ行くことを前提に大学も選びました。」

カンボジアの内戦についてご存知?

筆者は観ていないのだが、内戦が激化する1974年のカンボジアを舞台に、ピューリッツァー賞を受賞した記者の実体験を基にした、アメリカ人記者とカンボジア人の助手との国境を越えた友情と戦争の矛盾、悲惨さを描いた映画だそうだ。

カンボジアの内戦のことをほとんど知らないので、少し調べてみた。

カンボジアでは、1970年にシハヌーク国王のカンボジア王国が倒れてから、1993年にカンボジア国民議会選挙で民主政権が誕生するまで、内戦状態が続いたそうだ。

ベトナム戦争の影響

1965年2月にアメリカが北ベトナムの空爆に踏み切ると、シハヌークは対米断交に踏み切った。カンボジア領域内には北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線の補給基地が存在し、カンポン・チャム港はベトコンへの補給揚陸港として使用されていた。また、南ベトナム軍とアメリカ軍はカンボジア領内をしばしば領空飛行し爆撃を行った。国内は不安定だったものの、この当時、クメール・ルージュはまだ弱小勢力であり、食糧生産が豊富だったカンボジアは食料輸出国だった。アメリカは、ベトナム戦争遂行のためにカンボジアに親米的な政権を作る必要があった。

1970年3月、下院で国家元首としてのシハヌークを退けることが満場一致で可決され、将軍ロン・ノルは、非常時権力を与えられて首相となった。

その後、アメリカを後楯にしたロン・ノル政権と、反米・救国を旗印に掲げた革命派勢力、クメール・ルージュとの内戦が激化していった。

ポル・ポト率いるクメール・ルージュが大量虐殺

1975年4月、ポル・ポト率いるクメール・ルージュがプノンペン市内を制圧、ロン・ノル政権は崩壊し、ポル・ポト政権が誕生した。

ポル・ポトは、「学問、知識、技術、宗教他、人類の文化の全ては、共産主義の邪魔になり、政治を行う者以外は知識を持つ必要がなく、原始時代のような皆で助け合う平等な生活が理想」とし、自国の食料生産を上げるためと称して、都市部に住んでいる人々全員を農村に強制移住、強制労働させ、文字が読めるというだけで「知識人」として、「反乱を起こす可能性がある」という理由で次々に処刑し、反乱の首謀者になる可能性があるクメール・ルージュ内部の人間も、報復を避けるため家族も含めて虐殺した。

その一方で、「資本主義に染まっていない」まだ何も知らない子供たちを洗脳し、ポル・ポト思想を持つ少年兵士を多数生み出し、彼らに反逆者=処刑者を見つけ出すスパイ活動までさせていたという。

ポル・ポトがベトナム領内に進攻し、住民を虐殺したのをきっかけに、カンジアから亡命してきた人々がカンプチア救国民族統一戦線という軍を作り、ベトナム軍と一緒にカンボジアに攻め込むと、ポル・ポトの少年兵たちは成す術もなく、1979年、首都プノンペンが陥落し、人々は、その恐怖独裁政治から解放されたのだが、その間の大量虐殺の犠牲者は、200万人とも、300万人とも云われている。

キリング・フィールド

「キリング・フィールド」とは、この多数のカンボジア人が惨殺された刑場のことで、現在でもカンボジア各地に残されているそうだ。

内戦の終結

この後も、戦火は絶えることなく、1991年10月、フランスのパリで「カンボジア和平パリ国際会議」が開催され、国内四派による最終合意文章の調印が行われて、20年に及ぶカンボジア内戦がようやく終結した。

1993年にいくつかのグループの妨害を乗り越えて国民総選挙が実施され、制憲議会が新憲法を発布して立憲君主制を採択、ノドロム・シハヌークが国王に再即位した。

1998年4月には、辺境のポル・ポト派支配地域でポル・ポトが死んだことが明らかとなり、この地も平定された(以上、一部、wikipediaより引用、要約)。

ボランティアでカンボジアへ

倉田さんが大学4年生の時、1991年に勃発した湾岸戦争を機に、「日本はカネだけ出して、人は出さない」との批判が高まる中、人的貢献を望んでNGOに参加し、翌年に念願だったカンボジアへ行き、内戦で散り散りになった人々を地元に戻す「帰還民収容プロジェクト」のボランティアに参加した。まさに「これから国づくりが始まる」というタイミングだった。

「戦争で破壊しつくされてしまった環境の中でも生きていこうとする人間のたくましさ、お金がなくても生きていける社会があることの不思議さを目の当たりにして、そのままカンボジアに居ついてしまったんです。」

産業復興支援

「内戦によって、国民の約3分の1の命が失われ、伝統や文化はもちろん、インフラ、経済的基盤、人々の生活環境も壊滅的な状況でした。そこでは、どんな援助も焼け石に水で、付け焼き刃的に“与える”だけでは、国を立て直すことなんてできないし、カンボジアに根付いて育つような産業を起こして、内からの復興に努めなければ何も始まらないと思いました。」と、倉田さん。

日本に戻って数カ月間アルバイトをして稼いでは、カンボジアに行き、一人の日本人として出来ることをいろいろ模索し続けていた倉田さんは、1994年、農業の立て直しをしたいという想いから、起業された。

当時、日本ではまだ珍しかったフルーツのドリアンを輸出しようとしたが、強烈な匂いのため、航空会社から空輸禁止を受け、ココナッツは機内の気圧差で破裂してしまうなど、新しいものに手を出しては失敗の連続だったそうだ。

胡椒で起業したが、苦境に

ちょうどその頃、内戦前にカンボジアを訪れていた大叔父から、1960年代の貿易資料を日本で譲り受け、そこには当時のカンボジアの主力農産品の記載があり、その中のひとつの「胡椒」に目が留まった。

カンボジアの胡椒は、歴史も古く、13世紀の後半には、すでに中国にも紹介されていて、1960年代には、フランスをはじめとするヨーロッパで最高品質の胡椒として有名になっていたそうだ。

倉田さんは、古い資料を頼りに、胡椒の産地だったらしいカンボジア南西部のコッコン州を訪ねた。

そこは、700年の歴史を持つ伝統農法で胡椒が作られていた地域だったが、内戦が始まった1975年から約3年半で、胡椒は、ほぼ壊滅状態になっていた。そんな中、かろうじて戦火を逃れた農家が、奇跡的に生き残った3本の苗木から胡椒づくりを始めていた。

1995年、胡椒の買い付け販売、胡椒農家への投資と、自社農園の運営に乗り出した。

胡椒は収穫できるようになるまで5年はかかり、その間、中古医療機器の輸出入など副業で生計を立てながら農園に投資し続けたが、赤字は増えるばかりだった。

やがて、従業員に払う給料の遅滞が始まると、社員たちは、パソコンや車などを持ち逃げして、1人減り、2人減り、5人全員がいなくなって、後には借金と農園だけが残されたが、なんとか踏みとどまって、農園経営を続けた。

秋篠宮殿下ご夫妻のカンボジア来訪

2001年、秋篠宮殿下ご夫妻がカンボジアを来訪した際に、倉田さんは、現地で活動する日本人として御接見会に招かれ、幸運にも、殿下から、日本に持ち帰る手土産に胡椒が欲しい、とお声を掛きていただき、後日、大使館を通じ、ご夫妻から「おいしかったです。またいただきたいです。」というメールをいただいた。そこで、胡椒を日本に輸出するのではなく、カンボジアに来た人たちにカンボジア土産として売ればいい、ということに気がついた。

早速、観光客で賑わうアンコールワットに売りに行くと、カゴバック入りの胡椒があっという間に完売し、倉田さんは、手応えを掴んだ。

その後、デンマークのスパイスメーカーに初めての輸出が決まり、JICA(国際協力機構)が主催する物産展に出品すると、お年寄りの方やシェフたちがカンボジア産胡椒のことを覚えていて、そういう人たちが口コミで拡げてくれ、そして、英国のスターシェフがBBCの料理番組でクラタペッパーを取り上げてくれて、評判は、世界中に広がった。

自分たちもカンボジアで胡椒づくりをやりたい、と云う、ドイツ人やフランス人が訪ねて来るようになり、胡椒農園が拡がれば、とノウハウを伝授すると、育ててきた農家さんや従業員を破格の高給で吊って、引き抜かれたりしたが、倉田さんは、カンボジアの胡椒産業が発展すればいい、と全く意にも介しておられない。

カンボジアオーガニック農業協会より「国内オーガニック認定」

倉田さんが最もこだわってこられたのは、安全で高品質な胡椒を生産することで、カンボジアの農家に古くから先祖代々伝わる無農薬で自然肥料を使った伝統的な農法にこだわり、栽培を続けてきたことによって、2011年1月にはカンボジアオーガニック農業協会より、カンボジアの産物の中では初めて「国内オーガニック認定」を取得された。

本当の胡椒を知って欲しい

「日本では、胡椒はどこの家庭にもあり、知らない人はいません。でも、本当の胡椒を知っている人はいらゃっしゃるでしょうか?」

「農薬を使わず、自然肥料を使った伝統的な農法にこだわり、昔ながらの製法でつくった本当の胡椒のことを消費者の皆さんにお伝えし、味わっていただくことができたら、“おおっ”と思っていただけるんじゃないか、これまでに使っていた胡椒から入れ替えてもらえるチャンスがあるんじゃないか、誰も知らないものを一から売り込むより、ビジネスチャンスがあるんじゃないか、と思って始めました。」

「今、年間、黒胡椒2トン、白胡椒120㎏ほどを生産していますが、日本への輸出半分、現地半分程の割合です。当初好調だったヨーロッパ向けは、後から来たヨーロッパの人たちに取られちゃいました。でも、世界中の一人でも多くの方々に、カンボジアの胡椒を適正価格で買っていただき、搾取しないで、現地の生産者に還元することで、復興支援につながるのです。」

これからの使命

「最近、有難いことに、日本に帰国する度に、いろんな方からお声掛けをいただいて、セミナーやお話会で講師として胡椒の話をさせてもらう機会が増えてきましたが、世界一と誇れる胡椒を通じて、カンボジアの産業をこれからも育成し続けたい、そして、世界中にカンボジアの良さをこれからももっと広めて行きたいと思っています。」

「そして、これからの主役であるカンボジアの若者たちを育ててバトンタッチすることこそが、私の使命だと考えています。」

カンボジアの復興支援にもつながる、僅か10円のプチ贅沢

インタビュー後、夕食をご一緒したのだが、いつも持ち歩いているという腰のホルダーから、「IKEDA」製のペッパーミルを取り出し、なんでも、かんでも、カリカリ、カリカリ…。その夜は、中華だったのだが、どの料理も風味が一段と引き立って、ビールが進むこと、進むこと。なんと、驚いたことに、ビールやハイボールにカリカリしても、ぐ~んと、風味が増すのである。

時々、職質を受けるらしい

恐るべし、クラタペッパー!

「一回、カリカリで、3粒ほど、僅か10円のプチ贅沢です。」

クラタペッパー黒胡椒50gが853円、白胡椒20gが853円、完熟胡椒20gが972円だが、一家族に黒胡椒50gもあれば、半年程度はもつ。特別な料理の時に、白胡椒、完熟胡椒を使えば、2,678円の投資で、日常が非日常に変わり、とっても贅沢な味と気分が味わえる。

筆者がこれまで使っていたのは、某フランス有名食品店○ォションブランド(といっても〇&B製)袋入りテリチリブラックペッパー(ホール)19gで一袋約200円だが、ホンマもんを知ってしまったら、もう後戻りできない。

そんな人が増えれば、カンボジアの復興支援にもつながる。

日常生活の中に普通にある胡椒を見直し、カンボジアのことを改めて知る機会になった。

くらっち、ありがとう!

 

COREZOコレゾ「内戦で壊滅状態だった、世界一と称された幻のカンボジア胡椒を、伝統的な無農薬・有機肥料の農法、製法で復活し、産業復興に人生を捧げた男のいきざま」である。

 

最終取材;2018.07.

初稿;2018.08.

最終更新;2018.08.

文責;平野龍平

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