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COREZOコレゾ「米国居候生活で目からウロコ、暮らしを見直し、生産者や環境を守ることが、持続して、安全・安心・美味しい食と健康を得ることにつながると、Whole Food Lifeを提唱する料理人」賞
タカコ ナカムラ さん
プロフィール
料理家
一般社団法人「ホールフード協会」代表理事
経歴・実績
山口県の割烹料理屋に生まれる。
アメリカ遊学中にWhole Food(ホールフード)に目覚め、発酵食や乾物料理の提唱者として、数多くの商品開発やオーガニックカフェのプロデュースに関わる。
現在、食と暮らしと環境をまるごと学ぶ「タカコナカムラWhole Foodスクール」を主宰。一般社団法人「ホールフード協会」代表理事。
通信講座(がくぶん)「野菜コーディネーター」「発酵食スペシャリスト」「ホールフード基礎講座」監修。
「塩麹」、「50℃洗い」、「ベジブロス」の仕掛け人として次々と食のトレンドを発信し、業界関係者からも厚い信頼と注目を集めている。
近著
「はなちゃん12歳の台所」(家の光)
「奇跡の野菜だし ベジブロス」「AGEためないレシピ」(パンローリング)
「塩麹と甘酒のおいしいレシピ」(農文協)
「50℃洗い」「都市型保存食」(実業之日本社)
「50歳になると35歳にみえる人と65歳に見える人がいるらしい」(主婦の友社)
「改訂ホールフードでいこう」(自然食通信社)
受賞者のご紹介
タカコ ナカムラ先生のお名前と先生が企画しておられる愛知県三河地方の発酵・醸造を巡る見学ツアー「三河醸しツアー」の話は、日東醸造の蜷川社長から、以前より、度々伺っており、興味津々だったが、愛知の株式会社まるや八丁味噌さんで、「発酵食のスペシャリスト養成講座」を開催され、その後の食事会に蜷川社長と一緒に参加させて頂いて、お目に掛かることができた。
後日、東京の一般社団法人ホールフード協会にお伺いし、お話を伺った。
ホールフード
―ホールフードとは?
Whole Food(ホールフード)は、皮も根っこもまるごと食べる「全体食」から生まれた言葉ですが、私は、「食」とつながる「暮らし」や「農業」、「環境」他を含め、「食」全体として、とらえる考え方を「Whole Food(ホールフード)」と呼んでいます。
―皮も葉っぱも根っこもまるごと食べるってなると、残留農薬とかが気になりますよね?
そうそう、でも、残留農薬の問題って、無農薬の農作物を選べばいい、って単純な問題では無いんですよね。土壌汚染が進めば、いくら無農薬でも安全な農作物自体が生産できなくなる可能性もある訳ですから、自分や自分の家族だけが安全な食物を食べて、自分たちだけが健康と云うのはありえません。
もちろん、日々の食は、健やかな生活を送るための要なので、農作物や肉や魚、卵、乳製品は、自然な方法で育てられたものを選び、本来の製法でつくられた調味料を使って調理し、命ある食べ物に感謝しながらいただくことは、大切なことです。
でも、「食」は、私たちの「生活」に直結するだけでなく、同時に「自然」や「環境」、「森」や「大地」、「川」や「海」とも全て繋がっています。私たちは、食べ終わった食器を洗った洗剤がどこに流れて、環境にどんな影響を及ぼしているのか、も考えておく必要があります。そうすれば、どんな洗剤をどう使えばいいか、わかってくるはずです。私たちの「食」を、密接につながっている「暮らし」や「農業」、「環境」全てを含めて、考え、行動しよう、ということなのです。
マクロビオティックやスローフードとの違い
マクロビオティック、スローフードとどう違うの?とか、よく聞かれるんですが、皮のまま食べようとか、魚の骨まで丸ごと食べようとか、そんな小さな食のスタイルの話ではなくて、
Whole FoodにLifeライフをくっつけて、Whole Food Lifeホールフードライフと云ったらわかり易いでしょうか?安全な食を食べて、健康で豊かに暮らしていくには、目の前の食べ物のことだけを考えるのではなく、個々のライフスタイルとして、土や農業生産方法をはじめ、「食」の背景や生産者のことから環境のことまで、丸ごと考えよう、という考え方を、「Whole Food(ホールフード)」と呼んでいます。
ホールフードの考え方に目覚めたきっかけ
―食に関係する全てのことに思いを馳せ、行動しよう、ということですね?そのようなホールフードの考え方に目覚めたきっかけは?
1980年半ばに、料理を学ぶために渡米した経験がきっかけになりました。
―ご実家は料理屋さんとか?
そうです。実家は、田舎の料理屋で、冠婚葬祭のお料理から花見弁当まで何でもやっていて、小さなころから、住み込みの料理人さんも多くいたので、飲食のことは多少わかっていたつもりですが、お盆や正月は忙しく、食卓もないような、そんな料理屋の生活が嫌いで、絶対、料理の仕事はイヤ、結婚するなら普通のサラリーマンの人と、ってずっと思っていました。
自分を表現していきたい
―そんなタカコ先生がどうして料理を?
大学は、商業英語や貿易実務が専門だったので、大阪の商社に入社して3日で、これは違うな、と思ったのですが、大学からは、1年間は勤務して、後輩たちに道をつなげてほしいと言われました。
大きな企業の歯車のひとつでいるのが嫌で、自分を表現していきたいと思うようになり、昼間は商社で働き、夜は、当時、ハリウッドの特殊メイクに興味があり、人をキレイにするのも好きだったので、メイキャップアーティストの専門学校に通いました。
上京して自然食品関係のお店に就職
ちょうど1年間勤めて退職し、メイクの仕事をするなら、東京だと思って、上京したのですが、すぐに仕事が見つかるはずがなく、オープンしたての自然食品関係のお店で自然化粧品の立ち上げとメイキャップの指導する職に就きました。
当時、第一次自然食ブームみたいな頃で、私のいた青山の店には有名人がよく来店していて、私は、皆さんもよくご存じの女性タレントさんたちも担当していました。
その中に、来日したばかりだという、米国人のベジタリアンのモデルさんがいて、東京の食事情を色々教えて欲しい、と相談され、話している内に親しくなって、一緒に料理を習いに行こう、と誘われたので、都内の有名なマクロビオティックの料理学校に通うようになりました。
渡米して米国人の家庭で居候生活
当時は、まだ病気治しを目的とする人も多く、私が本で学んだダイナミックなマクロビオティック論との違いを感じ、米国へ行くことを決めました。
―それで、米国に?
家業を継がないことから、大学卒業後は、勘当同然だったので、親にも頼れず、バックパックを背負って、単身米国へ渡りました。今、振り返ると無謀すぎる旅立ちでしたね。
出国前にマクロビオティック関係の友人から米国の仲間を紹介されて、その方々を訪ねました。どこへ行っても、皆さん、初対面なのに空港で私のネームプレートを持って待っていてくれたり、家に泊めてくれたり、大歓迎してくれて、食の価値観が同じ人たちって、こんなに分かり合えるのかと感激しました。
―米国ではどんなことを?
当時、既にカリフォルニアでは、大型のオーガニックスーパーがあり、野菜だけではなく、オーガニックワインやオーガニックビーフ、ハーブの石鹸やシャンプー、オーガニックコットンなどハイセンスな商品が並んでいました。
日本とはオーガニックの状況があまりにも違うので、その勉強をしようと、全米を旅しました。中でも、大学のゼミの同級生がロサンゼルスに住んでいたので、ロサンゼルス中のオーガニックストアやレストランをくまなく視察することができました。
どの店も料理も、見るもの全てが感動的で、その時の経験が今の私の原動力になっていると思います。このオーガニックのウエイブは必ず日本にもやってくると確信していました。
最も大切なことは豊かな自然や環境を守ること
マクロビオティックというキーワードで米国に渡ったわけですが、オーガニックな生活をしている米国人の家庭に居候をさせてもらったおかげで、食だけではなく、暮らし方全体を考える必要があることを体感しました。
石鹸や洗剤から衣類、住環境に至るまで、多岐に亘って、ライフスタイル全体をナチュラルで快適なものにするにはどうすればいいか?環境にできるだけ負荷をかけないようにするにはどうすればいいか? 等々を米国での暮らしの中から考えるようになっていきました。
当時は、健康であるためには食さえ気をつければいいと、添加物とか農薬とかばかりに気をとられていたんですが、自分だけが安全な食物を食べて、自分だけが健康と云うのは、ありえないことがわかってきました。そして、私たちの食生活を支えてくれるのは、農家であり、生産者ですし、生産者の皆さんが安全でおいしいものを作り続けられるサポートをするのも消費者として大切なことだと思うようになりました。
自分の健康や暮らし、そして、農家や生産者のサポートを維持していく上で、最も大切なことは豊かな自然や環境を守ることだと気付き、それを「ホールフード」と呼んで、生涯のライフワークにしていこうと心に決めました。1989年のことでした。
原宿のカフェで料理人としてのキャリアをスタート
―で、料理人への道は?
帰国して、原宿でベジタリアンカフェをやることになり、料理人としてのキャリアがスタートしました。今思うと、当時としては斬新で画期的なメニューを作っていたと思いますが、少し早過ぎたかもしれませんね。
でも、そのメニューのユニークさを買われ、次に、元麻布のお菓子工房のリニューアルを任されることになりました。それが1年で売り上げが10倍にもなり、東京でも評判の店になりました。
独立して「ブラウンライス」をオープン
その後、その工房を譲り受けることになり、社名も「ブラウンライス」として、はじめて自分の会社を持ちました。その後、2003年までは、その安全な素材を使ったお菓子を作り続けていました。
オーガニックな料理教室を開校
―料理教室を始められたのは?
2003年、そのお菓子工房だった会社をアロマテラピーの会社に売却し、表参道に「ブラウンライスカフェ」というオーガニックのカフェをプロデュースするチャンスを頂きました。
そして、経営者の勧めもあって、カフェのとなりで、「ホールフードスクール」という、食と暮らしと環境をまるごと伝える日本で初めてのオーガニックな料理教室も開校することができました。
そして、3年後、カフェを離れるときに、スクール事業を引き継ぎ、「タカコ ナカムラホールフードスクール」として、独立することになりました。
―かなり、波乱万丈でロマンチックな人生ですね?
振り返るととそうかもれません。でも、いつも、自分の心に偽らないように、そして「ホールフード」の考えを広げていきたいという気持ちに少しのブレもありませんでした。
ホールフード協会の設立
―ホールフード協会の設立は?
2008年ですね。
―教室の方は如何ですか?
教室の経営はなかなか厳しいですが、このまま続けて行きたいです。健康を維持していくうえで、大切なことは沢山あると思いますが、「知る」、「学ぶ」という行動は、人生を変えるキーワードになると思っています。なので、利益が出る、出ないに関わらず、食の大切さを多くの人に伝えていきたいと思っています。
美容と健康への一番の近道は、日々の食事を見直すことからです。スクールでは、できるだけ安全で、生産者の顔が見える食材、パッケージ、包装資材はできるだけ環境負荷の少ないものを使う等を心掛けており、料理のテクニックだけでなく、素材の味を生かす料理方法、料理を科学した最新の調理方法、さらに、料理実習だけではなく、ホールフードの考え方や添加物の避け方、基本調味料の選び方なども幅広くしっかり学んでもらっています。
三河醸しツアー
―タカコ先生に興味を持ったのは、蜷川社長から聞いた「三河醸しツアー」からです。コレゾでも表彰させてもらっている方々のところを巡られるツアーなので…。
1980年代は、まだインターネットがなくて、自分で現場に行って見て、生産者の話を聞いて、確かめるしかなかったんですよ。そうして、生産者のこだわりやご苦労を知ると商品が愛おしくなり、大切に使う気持ちが芽生えます。
インターネットが普及して、情報が溢れている今こそ、自分の目や五感で確かめることが余計に大切になっていると思います。あのツアーも最初は集まるか心配でしたが、今ではリピーターが何人もおられます。
生産現場を訪ねることで、商品を正しく理解し、人と人がオーガニック(有機的)につながることができる、「気持ちのよい場」やツアーを増やしていきたいと考えています。
―生産者と消費者の距離を縮めることこそ、タカコ先生のおっしゃるホールフードにつながるのでは?
そうかもしれませんね。
―スクールとホールフード協会の講習の受講者数は?
どちらも延べで2,000名ぐらいでしょうか。
―それだけ、ホールフードの考えを学んだ方がいらっしゃるということですね?今後は?
食の大切さやホールフードの考え方を次の世代に残そうと、ホールフード協会を設立したので、まだまだ、少ないですが、ひとりでも多くの賛同者が増えればと、日々、活動を続けています。
モ~ヒ~2.0の生活から、COREZO(コレゾ)の事業を思い付いた誰かさんもいるようだが、タカコ先生は、紹介してもらったオーガニックな生活をしている米国家庭での居候生活から、「Whole Food(ホールフード)」の考え方を提唱、普及することをライフワークにしようと決めたそうである。
どこにどんなご縁が転がっているかもわからないのだが、捨てる神あれば、拾う神あり、瓢箪から駒で、上手くやれちゃう、タカコ先生の人徳、ホンマ、うらやましい限りである。
これからも、人と人がオーガニック(有機的)につながることができる、「気持ちのよい場」を増やしていっていただきたいものである。
COREZO(コレゾ)「米国居候生活で目から鱗、暮らしを見直し、生産者や環境を守ることが、持続して、安全・安心・美味しい食と健康を得ることにつながると、Whole Food Lifeを提唱する料理人」である。
文責;平野龍平
2016.04.最終取材
2016.10.初稿
2016.11.27.編集更新
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