上芝 雄史(うえしば たけし)さん/藤井製桶所・株式会社ウッドワーク

COREZOコレゾ「世界に誇れる日本の伝統的な醸造文化を守る最後の砦、桶屋で食える時代が若いモンに来ることを願い、技術の種を蒔く桶師」賞

takeshi-ueshiba上芝 雄史(うえしば たけし)さん

プロフィール

大阪府堺市出身、在住

藤井製桶所

株式会社ウッドワーク

桶師

※本名は藤井雄史さんだが、同族経営の社内で混乱が起きやすいため、住まいの地名を取って通称として使用しておられるそうだ。

ジャンル

モノづくり

伝統文化

醗酵食文化

桶職人

経歴・実績

1950年 大阪府堺市生まれ

1972年 桃山学院大学経済学部卒業

5年間のサラリーマン生活を経て、3代目となる家業の製桶所を継承。

1983年 株式会社ウッドワーク設立

1984年 いったん終業していた藤井製桶所を復活

1991年〜96年まで(財)日本住宅木材センター木槽分科会委員として『木槽受水槽設計、施工の手引き』の編集に携わる。

2001年 東京農業大学教授、東和男氏の著書『発酵と醸造Ⅰ』に製桶の専門家として寄稿。

2002年「桶仕込み保存会」の創立メンバーとなり、木桶の復活と現代的な活用法に力を注ぐ。

受賞者のご紹介

 

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上芝 雄史(うえしば たけし)さんは、大阪府堺市の藤井製桶所・株式会社ウッドワークの桶師。

2009年、香川県小豆島で、代々、木桶で仕込む伝統的な製法で醤油づくりをしておられるヤマロク醤油五代目の山本康夫さんは、今や、醸造用の大型の木桶を製造できる唯一の桶屋さんとなった「藤井製桶所」に3本の木桶を発注された。醤油屋さんが新材での真新しい新桶を作るのは戦後初だったという。

その新桶製作時、山本さんは、仲間の大工さん2名と一緒にその製作過程を学び、2013年9月、自分たちの手で仕込み用の新桶を製作された。ヤマロク醤油さんは、醸造用の木桶から作って醤油をつくることができる、世界で唯一の蔵元になったのである。その製作中の現場を見学させて頂いた。

また、長野県小布施の「桝一市村酒造場」さん愛知県岡崎市の「まるや八丁味噌」さんからも仕込み用の木桶の新調や修理を「藤井製桶所」さんに依頼していると伺い、山本康夫さんからご紹介頂いて、日東醸造の蜷川社長と一緒に、上芝さんを訪ねた。何と、事務所も桶だった。

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あの大きな(大きいのは三十二石・約6000リットル、直径・高さが約2m)醸造用木桶をつくっておられる方なので、筋骨隆々のゴツい職人さんを想像していたが、細面のとっても柔和な方だった。しかし、その手はゴツくて、職人さんそのものだった。

かつては、醤油の大手には、製桶部があった…

ー 小豆島のヤマロク醤油さんが作っておられる木桶を見学してきました。

「そうでしたか。昔は、醤油の大手には、製桶部というのがあって、自前で仕込み桶を作っていましたが、私が生れた昭和20年代~30年代というのは、全国の酒蔵の木桶がホーロータンクにかわっていった時期で、昭和40年代には全滅しました。小豆島には、木桶が1000桶以上ありましたが、どんどん数は少なくなっています。」

昔からあった桶の使い回し

ー 日東醸造さんでは酒の仕込み桶を「しろたまり」仕込みに転用されているそうですが?

「ええ、そういう桶の使い回しは、昔からあったことです。かつては、酒屋さんがまず新桶をつくり、2~30年後に酒桶としての寿命が尽きてくると、次は、味噌屋さんや醤油屋さんが買い取り、それらをまた桶屋が削り直して、ひとまわり小さな桶が作られ、漬物屋さんに行って、150年位は使います。そして最後には、薪になるという循環を繰り返してきたのです。」

「酒屋さんで使われなくなった桶は酒蔵の2階に保管されていることが多いのですが、お酒はpH4の弱酸性(中性pH7)で、デンプン質を含んでいるため、キクイムシにやられていることが多く、液漏れの原因になっています。修理の依頼も多くて、食品用のシリコンで虫穴を塞ぎ、燻煙して防虫します。」

酒の仕込み桶とみそ、醤油用との違い

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「本来は、酒の仕込み桶には、『源平』とも呼ばれる『白太赤身』を使います。赤身と白太の間にある『白線体』が、アルコールが外に漏れるのを防いでくれるためです。この『白線帯』というのは、白太から赤味に変わろうとしている部分で、水分を通しにくいという特性があります。一方、みそ、醤油用は、より腐り難い『全赤』を使います。」

桶の材料として吉野杉がいいワケ

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「桶をつくるには、割子といって、材料の木を切って割るのですが、杉を使うのは、大木でも割りやすいのと、身近にたくさんあって、軽いからです。吉野は、日本で最も林業の歴史が古い地域の一つであり、その歴史は400年以上と言われています。水系や地域の特性もあると思いますが、その林業のやり方は独特で、樽丸林業とも呼ばれていました。樽丸とは、酒樽にする木材のことで、吉野杉から一定の長さの酒樽の側板を作り、それを丸く束ねてマルワと呼ばれる竹の輪(箍)に一定量詰めて円柱状にしたので『樽丸』と呼ばれます。」

「吉野杉がいいといわれるのは、一般的な林業(戦後、国が進めた林業)では、1haあたり3,000本から、多くても5,000本が植林の目安とされていますが、吉野では、1haあたり10,000本を超えて密植し、木の成長を遅らせて、年輪が詰んだ材を作ってきました。年輪が密になると強度が高くなり、木の質もよくなります。また、木目も非常に綺麗なものになります。それに、節のあるものは桶や樽には使えないので、枝打ちや間伐も丁寧にやっていると思います。」

ー とても高価であるとも伺いましたが?

そうですね、普通の杉の3倍ぐらいの値段でしょうか、立米35万、1本50万位します。山持ちが材を出さないので、最近では値上がりする傾向にあります。」

堺で桶づくりが盛んになった理由

ー 堺は昔から桶づくりが盛んだったのですか?

「私は、桶屋の三代目で、祖父が桶屋を始めた当時、大きな桶をつくる桶屋の中では、ウチは新参の方でした。大正時代、堺の桶樽商組合には47軒加盟していましたが、今や、全国にも、わずか数軒しか残っていない桶屋の1軒になってしまいました。」

「産地である吉野に近く、材木を運ぶ水系があったので、堺の商人が地の利を活かして取扱いを始め、酒造りが盛んなに地域に運んでいたのだと思いますが、灘・伏見という酒の二大生産地への供給に有利な立地と、最適な材料があり、道具の打ち刃物もあったので、次第に桶職人も集まり始めたのだと思います。」

桶と樽の違いは?

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ー 初歩的な質問で申し訳ありませんが、そもそも、桶と樽の違いは?

「『桶』は蓋があるものもありますが、外せる構造になっています。密封性のある鏡(蓋)のない物が『桶』、あるものが『樽』なので、『樽』は、主に貯蔵、運搬用です。今でも祝い事に鏡割りをする習慣が残っているので、樽屋の方は全国で15軒位残っています。」

「古代の日本では、木の器といえば刳(くり)物か『曲げ輪っぱ』のような曲物でしたが、鎌倉時代にヨーロッパからアジアを経て渡来したといわれている結桶の技術のおかげで、遥かに耐久性のある大きな器がつくれるようになりました。」

「これによって、モノの大量生産や大量輸送が可能となり、日本人の生活や産業を劇的に変えることになりました。江戸時代になって、町人文化が成熟すると、大きな桶で酒や味噌、醤油、酢が醸造され、それらは樽詰めされて、貯蔵されたり、遠方にも運搬されたりして、醸造業は飛躍的に発達し、桶・樽材としての吉野杉も全国的に有名になりました。」

江戸時代には大工の倍の数の桶樽職人がいた⁉︎

「江戸時代には大工の倍の数の桶樽職人がいて、手間賃も高かったため、競争が激しかったといわれています。材料は、依頼主から支給され、例えばこの桶なら15人工(にんく)というような手間賃が支払われたので、14人工でできれば1人工分得するし、16人工分かかれば1人工分損するという訳です。だから、早く、無駄なく作らなければならず、自ずと技術が磨かれました。」

「また、その頃は、木取り屋という商売があって、そこから発注された桶をつくるのに歩留まりギリギリの材料が渡されていたのですが、それでも、腕のいい職人は材料の側板が1枚余るように桶を仕上げ、その余らせた高価な側板を売って、遊興したといいます。そんな桶工は匠とも呼ばれていました。箍(たが)を扱う和竹商組合もあって、戦前までの一大産業でした。」

木の仕込桶が衰退した2つの理由とは?

「しかし、戦後、昭和30年代になると、酒屋さんは、微生物の働きや醸造をコントロールしやすく、より低コストで酒がつくれ、洗ったり、修理したり、メンテナンスもより簡単に済むと、木桶を次々にホーロータンクに替え始めました。また、杉の酒桶で仕込みや貯蔵が行なわれていた時代には、酒税も現在と異なる製造石数による造石税で課税されていました。杉の桶では、年に数%程の清酒を吸って目減りする自然欠減が生じますが、この桶が吸ってしまう自然欠減分にも酒税が課せられていました。大正時代になって、欠減率として5〜7%が控除されるようになりましたが、これを国税庁は長年問題にしてきました(現在はタンク仕込みになり、出荷数量に合わせて課税されているそうだ)。」

「また、昭和40年以降、『衛生的でない』と、保健所が指導を強めたことも木桶からホーローやFRPタンクへの移行を加速させたと言えるでしょう。高度成長期を迎え、価値観がどんどん変化し、『効率』、『衛生』等を重視する風潮は、酒屋さんから始まって、味噌や醤油屋さんにも拡がり、桶のリサイクルのしくみも次第に崩れていきました。それも時代の流れだったのかもしれません。」

桶が寸胴ではないワケ

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「工場も見てもらいましょう。」と、ご案内頂いた。内部には、修理中や修理を待つ大小の桶がいくつも並んでいた。

「桶は寸胴ではなく、微妙な曲線を描いています。この曲線のおかげで大きな桶でも持ち上げることができます。側板同士は竹釘で止めていますが、接着剤はもちろん使っていませんし、ホゾも何も切っていません。平らな面と面だけで接しています。ヘンなことをすると、万一、液漏れした時に原因がわかり難いのです。面と面であれば、原因箇所が何処であるか、一目瞭然、すぐにわかる訳です。シンプルイズベストですよ。」

ー 面と面だけで密着させて、液漏れをさせないというのは、スゴい技術ですね?

竹の箍とステンレスの箍、どちらが長持ち?

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「ハハハハ、もちろん、真円に組んだり、鉋掛け等の技術も必要ですが、箍も重要な役目を果たしています。この竹の箍は鉄の2.5倍の引っ張り強度がありますし、鉄の箍では、ステンレスでも塩分濃度の高い味噌や醤油桶に使うとすぐに錆びてダメになりますが、竹の箍なら、締め直して、50年位に一度、箍の入れ替えをするだけで済みます。」

「箍にも三本の竹材を編み込んだ『組み輪』や、二本をねじるように編み込んだ『ねじ輪』があって、桶の用途によって使い分けます。箍の内側には、芯巻といって、箍をつくった余りの竹を縄で巻いて束ねたものが入っています。これは結んだり、止めたりしていないのですが、自然に締まって、箍が潰れたり、ズレたりするのを防ぐ重要な役割をしています。」

ー へぇー、それはスゴい、桶って、人間の叡智と技術のカタマリですね?これはこのまま途絶えさせてはイケナイですね。

「ま、そう思ってくれる人が増えればいいんですけどね。」

大径の箍(タガ)をつくるには?

ー 大径の箍をつくるには高さ10m以上の竹が要ると伺いましたが、どうされているのですか?

「京都には竹を扱う業者さんがまだ残っていましてね、ウチは保津の真竹を割っておいてもらって、輪っかにして持って帰ってきます。」

桶づくりを学ぶ方法とは?

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「もうね、桶づくりに関しては、教えを乞える人がいないんですよ。修復のためにここに来た古い桶にこそ、昔の桶職人の技術と教えが詰まっていて、そこから学ぶしかない訳です。だから、古い桶は大切にしています。また、古い桶に新しい側板や部材を入れると、伸縮率やいろんなところで不都合が生じるので、古い桶を修理する時は、古い桶の部材を取っておいて、できるだけ合う材料を組み合わせて使うようにしています。」

「でね、そんな古い桶を組み直したり、解体したりすると、底板の側面の合わせ面にその桶をつくった桶職人たちが書き残したメッセージが見つかります。これなんかを見ると、今から183年前につくられたというのがわかります。」

ー まるで、タイムカプセルみたいですね?ヤマロクさんたちも桶が解体されるのは100年以上先のことだろうから、自分たちは見ることはできないけれど、メッセージを書き込むんだとおっしゃっていました。なんか、ロマンを感じますね。

桶師の仕事とは?

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「我々、桶師は、まず木を見て、上手く木取りし、強すぎず、弱すぎずで、ピッタリ入れ、歳月に耐える美しい桶をつくり、その腕を競います。桶師というのは、預かった木の命を最大限に活かし、自分の命よりもはるかに長い寿命を持つモノづくりをする仕事です。」

桶の復活に尽力してくれたのは日本人ではなかった⁉︎

小布施の桝一市村酒造所にも行かれたとおっしゃったのでご存知だと思いますが、2000年頃から、セーラ・マリ・カミングスさんが、木桶仕込みの復活に尽力してくれました。そのセーラさんが立ち上げた『桶仕込み保存会』の活動もあって、木桶が見直され、大桶の注文や問い合わせが増えています。」

「また、これまでのウチとのつきあいがある酒屋さんや味噌屋さん、醤油屋さん、酢屋さん、漬物屋さん等でも、木桶に関心を持って下さるところが、少しずつ増えています。これは桶屋としては、大変有難く、嬉しいことです。」

『桶の注文が増えた』と、喜んでいる状況ではない理由

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「ウチでは、桶以外の木工業も営んで、なんとか『桶屋』の看板を守ってきましたが、もはや大桶づくりの末裔的な存在になってしまいました。木桶の需要が無くなると、まず、地元の山の手入れしていた木こりから桶の材料を準備する仕事が消えました。」

「木桶をつくるのには、200種類以上の道具がありますが、この道具を作る人も、早い時期から消えてしまって、道具の調達すらままならず、今も続いている桶屋は古い道具を購入するか、自分自身で工夫して作るしかありません。桶師も、桶師の道具を作る鍛冶屋さんも若い後継者は居ません。箍の竹を割る割り竹屋さんに至っては、全国に数軒が残るのみです。」

「こうして、かつての協力して桶をつくるしくみが崩れてしまったので、今では、桶職人自身が、桶作りの工程の全てを担わねばならず、桶屋を継続するのは、現実的には難しい。ですから、ウチの『桶の注文が増えた』と、喜んでいる状況ではないのです。そんなことより、桶をつくる技術の種があちこちに蒔かれて、若い桶屋が芽を出してくれる方が、ずっと大事なのです。」

知識があってもモノはつくれない

ー 後継者はいらっしゃらないのでしょうか?

「桶づくりをしたいとウチに来た人は3年で辞めてしまいました。技術というのは、答えがない。本やビデオで伝えるには限界があります。知識があってもモノはできません。働いて、実際につくって、を繰り返して、徐々に身に付きます。上手くいかなければ、考えて、工夫します。それがやがて知恵になっていきます。感性を磨くというか、視覚や触覚、五感を全て駆使する、そういう世界ですから。」

ー 不器用でプラモデルもマトモにつくれないワタクシが弟子入りさせて欲しいといったら?

「ハハハハ、3年間、無給でよければ、いいですよ。」

今ある技術を次に伝播できるネットワークをつくっていって欲しい

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ー ヤマロクさんたちが手掛けておられる新桶つくりにも全面的に応援しておられると伺いましたが?

「はい、完成する頃には、見に行くつもりです。大きな桶づくりというのは、チームワークです。大桶をつくるとき、関心のある若い人たちが2~3人集まって、私らの指導の下で苦労してでも、つくっておく。そういう実践を重ねていくと、将来の展望は少し明るいかなと思うんですよ。実際にそれをやってくれている。こんな嬉しいことはありません。普段は別の仕事をしていても、大桶組む時は、皆んなで集まって一緒に仕事する集団、あるいは、今ある技術を次に伝播できるネットワークをつくっていって欲しいですね。」

桶屋業の継承をしていくためには?

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ー ヤマロクさんたちは、今回上手くできれば、年にひと桶づつでも作っていきたいとおっしゃっていました。

「木桶は、多孔質ですから、外気の変化から影響を受けにくく、桶の中の温度を一定幅に保ち、通気性もあるため、菌や微生物が住みやすく、どんな材質の桶よりも発酵にも適しています。木桶は、日本の発酵食の文化を支えてきたのです。その発酵食に世間の注目が集まって、木桶の価値が見直され始めました。ホンモノを極めるために、先人の知恵を見直そうと考えれば、木桶に行き着くのです。その技術は日本人の暮らしのなかにずっと息づいてきたものでした。世間の人たちがそういうことを忘れてしまうと、先人たちが長い年月と並々ならぬ努力と知恵を積み重ねて築いた文化や技術も、一瞬で消えてなくなってしまいます。」

「今は、とにかく桶に関心を持ち、桶をつくりたいという若い人たちを増やし、桶づくりを応援することが先ですが、桶屋の仕事は、当然ながら技術のレベルが問われます。そういう若い人たちが増えれば、一定のレベルを満たさないものは、『桶とは言えない』と指摘し合うような基準を桶屋同士でつくって、研鑽しあうことが必要でしょう。そうしてはじめて、桶屋業の継承もできるだろうし、醸造業に限らず、桶を使ってもらえる場面も増えると思います。そして、関連産業の復活、再生にもつながって、『桶屋でメシが食える』という時代が来れば、一番いいことだと思います。」

COREZO(コレゾ)賞・財団の趣旨をご説明し、ご承諾頂いた。上芝さんが現役のうちに、ヤマロク醤油の山本さんのような方がひとりでも多く現れることを祈りたい。

COREZOコレゾ「世界に誇れる日本の伝統的な醸造文化を守る最後の砦、桶屋で食える時代が若いモンに来ることを願い、技術の種を蒔く桶師」である。

後日談1.第2回2013年度COREZO(コレゾ)賞表彰式

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「杉の仕込み桶と日本の伝統醗酵食文化」トーク・セッションでは熱弁をふるって下さった

後日談2.日東醸造足助仕込蔵

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2014年4月、 上芝さんが日東醸造足助仕込蔵の仕込桶を修理に来られるというので、見学に伺った。

COREZO (コレゾ)賞 事務局

初稿;2013.11.09.

最終取材;2014.06.

編集更新;2015.03.16.

文責;平野 龍平

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