岸菜 賢一(きしな けんいち)さん/「きしな屋」旅するバイヤー

岸菜賢一

COREZOコレゾ「古き良きものを残すために進化しよう、つくり手と一緒につくり、伝え、売る、旅するバイヤー」賞

岸菜 賢一(きしな けんいち)さん

岸菜賢一

プロフィール

きしな屋 代表

動画 COREZOコレゾチャンネル

木桶職人集団「結い物で繫ぐ会」による日東醸造㈱足助仕込蔵の木桶修理作業

受賞者のご紹介

「旅するバイヤー」のリーマン時代

「旅するバイヤー」こと、岸菜 賢一(きしな けんいち)さんは、こだわり食品のセレクトショップ「きしな屋」の代表。

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仕出し弁当で有名な企業に新卒で就職し、ケータリングや生産現場を経験した後、新規事業として、クックチルド事業を業界で始めて立ち上げた。

クックチルドというのは調理済みの食材をチルド冷却し、真空パックに入れてそのままお届けする新しい形の委託給食事業であった。

メニュー開発から、品管、営業と何でもこなして、奔走し、体調を崩したタイミングで品質管理の責任者になった。

当時、若気の至りで、自分は何でもできると勘違いしていて、その会社は営業が弱かったので、もっと営業を勉強したいと思い、退職して、一番大変な営業はモノよりヒトだと考え、派遣会社で仕事を取る職に就き、営業経験を積んだ。

その後、「社長候補募集」という求人に惹かれて、北海道の食品メーカーに転職し、道北エリアと名古屋以西の営業を担当して、実績も上げたが、違う意味での社長候補でもあったので、「それはちょっと違うな」と、大手食品メーカーに転職して、チルド惣菜を担当した。

その会社で、妻と出会い、旅好き、食い道楽だったので、地方にもよく行き、家族経営の小規模なメーカーでもいいモノを作ってるところがたくさんあるのを知ったが、せっかくいい商品を開発してつくっても、必ず問屋が入り、消費者に売る人に商品知識がないため、販売には結びついていない実情があった。

コネクターやブローカーを目指して独立し、バイト生活

会社の数字はそれなりに作れていたが、子供に自分たちが開発して売っている商品を毎日食べさせられるか、と云う疑問を持ち始め、自分で商売をしたかったこともあり、地方のいい商品を自分で売ろうと決心し、妻も子供もいるのに、お金も経験、知識、何のコネもないまま、35歳で辞めて独立した。

小売で規模を取るのは難しいので、A社とB社をコラボしてC社に売るような、コネクターやブローカー的な仕事をしたかったが、如何せん、全く信用がないので、話は聞いてくれても何も前には進まず、やればやるほど何も見えなくなった。

信用が先、と思い至り、リアルの店舗があれば、モノの売り買いができるので、実績つくりの為、大阪府枚方市の実家の近くに古い建屋で、リノベーションして安く貸すという物件を見つけて、店舗をオープンし、母親に店番をしてもらった。

店舗をオープンしたからといっても、商売がすぐに軌道に乗るはずもなく、宅配業者でバイトをして、お金が貯まると商品を探しに出かけるような生活が続いた。

そして、北海道物産展の手伝いをしていた時に出会った伝説的な売り手さんに気に入られ、「一番売れる物産展を見せてやる」と、鹿児島の山形屋に連れて行ってもらった。

物産展で催事のノウハウを学んだ

そのデパートは、商品券積立の満期に合わせて物産展を催すので、それこそ飛ぶように商品が売れた。

催事の仕事は、日当、宿泊費 交通費自己負担なのだが、期間が2週間ぐらいあるのでソコソコお金が貯まり、物産展は全国で続くので、その合間にその地域の良い商品を探す生活を1年半くらい続け、催事の売り方、設営、撤収のノウハウを身に着けた。

催事をやって試食が大事なのがわかったが、無料の試食には抵抗があった。2階にレストランがある物販店を大手小売がやって失敗しているのは、知っていたが、お茶が飲めて、軽食が食べれて、と云う飲食ありきの物販店をやりたくて、スナックの居抜き店舗を見つけ、2店舗目を出店しようとした矢先に母親が倒れて、計画の見直しをせざるを得なくなった。

TKGのきしな屋は嫁でもってます

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お客さんは人に付くので、常連さんが店に付いて下さるようになっていたが、仕事の愚痴を云っていたら、「一緒にやったるわ」って、同じ会社で商品開発の仕事をしていた妻も辞めて店に立つようになった。

妻は、接客したことがなかったので、お客様に話しかけなくても、説明できて、買ってもらえる仕組みを考えたのだが、その手書きのPOPが好評で、ブログもヤフートピックスに上がるようになった。

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木桶の醤油の話をブログで書いたら、小豆島中で話題になって、「醤油のきしな屋」と認知されるようになった。

ある日、「よーいドン」という関西ローカルTV情報番組取材中のタレントが、店舗前に貼り出している「卵かけご飯」の写真を見つけ、「食べれると思って…」と、飛び込み取材を受けた。

その時、通常、提供していない「卵かけご飯」を、機転を利かせて、食べさせるという、神対応を妻がしたところ、番組のスタジオでも取り上げられて、「TKG(卵かけご飯)のきしな屋」は、関西一円に知れ渡り、店のひとつの柱になった。

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そして、妻が店に立つようになって1年半くらいして、店舗運営の一切を任せた。

「きしな屋は、僕でなく、嫁でもってます。」と、岸菜さん。

京阪の商業施設で催事を開始

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きしな屋本店は、大阪~京都間に路線を持つ京阪電車沿線の枚方にあるが、店を始めて3年後、京阪元役員との運命的な出会いがあった。

当時、その役員さんは、入院をしておられ、見舞いに来た部下の方に、「おもろい店がある」と、きしな屋を紹介した。

実際に店舗に来られ、気に入ってもらえて、「催事に出ないか?」と、誘われ、大阪天満橋にある、「京阪シティモール」と云う、商業施設の30坪 の売り場で全国物産展を1人で開催したところ、めちゃくちゃウケて、めちゃくちゃ売れた。

京阪さんにも喜んでもらえ、京阪沿線の他の京阪系列の商業施設からも声が掛かるようになり、店舗にも来てもらえるようになるので、店を起点に出来るだけ地元で地域密着型の催事活動も行っている。

繊維問屋街の船場に店をオープン

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枚方本店は、用事がないと来てもらえないが、ついでがあって、勤めの帰りにも寄れ、情報発信ができる店舗を持ちたい、と思っていた。

ミナミやキタでも店舗を探したが、家賃が高く、テナントでの引き合いもあったが、面白味が感じられなかったが、船場には、ついでがあったり、勤めの帰りにも立ち寄れるし、10分もあれば、地下鉄でミナミでもキタにでも行ける。

船場は昔から繊維問屋街だったが、繊維業界は、世代交代が進み、自社ビルを立て替えたり、売られて、マンションが増加しており、企業は減っているが、住民は増えていた。

船場近辺のマルシェに出店していたこともあって、この船場店の裏手に億ションが建ち、近隣にはホテルも増えていて、地域住人の所得が高く、食もいいものを食べている、という情報を得ていた。

そういう人たちにいいね、と云ってもらえると、口コミで店の全体的な評価も上がる、と考えた。

「繊維問屋街にどうして食料品店をつくったの?と云うのは、よく聞かれる質問で、実際、オープンしてみると、メディアがよく拾ってくれるし、同業者もよく来てくれて、コネクションが広がり、発信してる人が寄ってくる場所になっています。船場は、難波や梅田以外で今のお客さんを繋げられる場所だと考えていて、大阪のど真ん中でなんか叫んでるわ、という方が、目立つような気がしています。」と、岸菜さん。

「結い物で繋ぐ会」

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「それまでやって来たことのひとうひとつのピースが上手く合わさって、いろんなことが動き出したのですが、その一つが『結い物で繋ぐ会』です。」

日本で唯一残っている大型の仕込桶をつくれる製桶メーカーの藤井製桶さんが廃業するかもしれないという危機感から始まった、小豆島のヤマロクさんの木桶職人復活プロジェクトに呼んでもらい、そこで蜷川さんや原田さんにも出会った。

桶職人の原田さんとは、下積みの期間が同じ3年間あり、すごく気が合って、桶のことを良く知らなかったので、すぐに原田さんが営む、徳島県阿南市の「司製樽」に訪れ、いろんなことを話した。

ヤマロクさんの木桶職人復活プロジェクトで、新桶づくりは存続できる見通しがついてきたが、桶は、修理をしながら、長ければ、200年もの間、使い続けることのできる道具であるのに、修理ができる桶職人がいなくなっているのも大きな問題だった。

桶づくりにしても、売る人、作る人、伝える人と云う、役割分担が必要で、同じく「木桶職人復活プロジェクト」に参加していた、五島列島の「桶光」の宮﨑 光一さんも入れて、3人でチームができる、と直感した瞬間、桶のことが動き出した。

ビジネスとして利益を得る木桶職人集団

ボランティアでは、何も残らないし、ビジネスとして皆んなが利益を得ないと成り立たないので、仕組みをつくる必要があり、商品の開発支援まで3個一で一人前なので、LLP(Limited Liability Partnership)「有限責任事業組合」という形で、組合を立ち上げた。

LLPという事業体は、元々イギリスで生まれ、その後、アメリカなどにも広がり、2005年から日本でもこの制度が適用された。民法上の任意組合と株式会社のそれぞれの良いところを取り入れ、会社でも組合でもない新しい事業体となっている。

株式会社で最も重要なのは「資金」で、利益配分や意思決定が出資比率で決まるが、LLPは、資金ではなく「人」を中心に形づくられた組織で、他の人が持っていないアイディアや能力、技術、専門性などに大きな価値を置いているため、設立時の出資が僅かでも、出資比率ではなく、内部自治によって、利益配分、権限、ルールも独自に決定でき、株式会社のように取締役会に影響されず、出資者同士の合意だけで事業方針等を決めることができる。

一方で、LLPは、株式会社のように法人格を持たないため、LLPの名前自体では契約はできない。また、法人税が課税されないため、LLPへの出資者の利益配分額に対して、それぞれ課税され、LLPの事業で損失が出たときは、出資の価格を基礎として定められる一定の範囲内で、組合員が別の事業から生じた所得と通算することができ、全体の課税対象額を圧縮できるが、多くの利益が見込める事業であれば、法人化することで節税効果が大きくなる場合もある。

12本の6石(直径約1.2m×高さ約1.2m)新桶受注

岸菜さんは、発酵茶である高知県の碁石茶の生産者のところに行ったことがあり、仕込桶が痛んでいるのを知っていたので、修理できると伝えたら、2本修理依頼が入り、直したら、他の生産者も木桶を復活させたいとう言う話が入り、組合から計12本の6石(直径約1.2m×高さ約1.2m)の新桶発注が入った。

桶づくりには、教科書がなく、つくって経験を積むしかない。事業継承等の補助金が使えるなら、新規につくると高額になってしまう新桶もつくれることもあり、いろんな職人が木桶づくりに関わることで職人同士の刺激になるし、仕事の幅が拡がり、技術継承、桶職人の収入確保にもつながる。

地方のメーカーの開発支援

湿気の多い6〜9月の間は桶づくりはしないので、岸菜さんは、地方の商工会議所や中小機構さんから呼ばれ、ボランティアでメーカーさんの商品開発支援等をしてこられたが、日本全国の6次産業化中央サポートセンターで登録されたおかげで、依頼があれば、旅費や謝金も支給されるようになり、今や、全国を飛び回っておられる。

「実はね、原田くんと飲んで盛り上がって、よーし、やって行こう!って、決めて、握手した瞬間に、桶の注文の電話が入って、よっしゃ〜、今、来た〜、って、そりゃあもう、鳥肌もんでした。そういう感覚が最近ちょくちょくあるんですよ。」

「僕には、いつもどこかにつくり手のイメージがあって、つくりたいけど、つくれない、でも、今、ちょっとかじってるだけですが、同じやるなら、自分たちがつくった桶で仕込んだ商品を売りたい、その背景も説明できますしね。」

「きしな屋の取引先は、100社を超え、350アイテム以上の商品を取扱っていますが、売れてるからコレ売ろうというのは、イヤなんで、自分たちがつくって納めた木桶で仕込んだ日本酒を売るとか、そういうことをやっていきたいですね。」

「最近、たまにですが、木桶といえば、きしな屋さんですね、って云ってもらえることがあって、それは、すごく嬉しいですね。」

我を通すより、謙虚が大事

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「お櫃とか、寿司桶とかで、困ってる人がいっぱいおられるんですが、百貨店とかで取り扱っていても、売ってる人が使ってないから、聞いてもわからない。どこの誰に聞いたらいいのかもわからない。でも、きしな屋に来てもらったら、原田さんに教えてもらって、箍も編めるし、それなりの知識もあるので、対応できます。」

「これまでは、とにかく良くなりたい、が勝っていて、その場、その場で帳尻を合わそうとしていたように思うのですが、原田さんたちと出会って、自分の中での本筋が出来てからは、誰が何を言おうと、我を通すというのではなくて、軸がブレなくなって、ブレなければ、なんとか続けていける気がしています。」

「ちょっと前までは、何でもかんでも、地球の中心は自分で、自分が、自分が、だったんですが、彼らが、って、一歩引けるようになってから、なんか、すごくものごとが上手く廻るようになって、謙虚っていうのは大事だと思うようになりました。」

飲食もできる有料試食の店舗

「最近、料理をしない人が増えているので、皆さん、食材や調味料とかの使い方がわからないんですよ。で、口頭で云っても、まず、イメージできないですから、キッチンがあれば、目の前で簡単なのをちゃちゃっとつくって食べてもらったり、ワークショップもできるんで、そういう店をやりたくて、そういう店舗を探すためにも、ここ(船場)にしたんです。」

「どこでもそうでしょうけど、ここ(船場)にいないとここのことはわかりません。この船場店には、名だたる企業の社長さんや会長さんも来てくださって、そんな人とのつながりができれば、いい物件の情報も手に入るのではないかと、調子のエエことを考えています。」

古き良きものを残すために進化しよう

「地方には、いいものを作っていてもビジネスになっていない、後継者や体制が整っていない、ところが多いんです。そういうところは、社長、なんでこれ作ってるんですか?と、尋ねると、誰かに云われたとか、どこかブレているんです。」

「つくり手の皆さんが一番つくりたいものは何か、誰と組むか、が大事だ、とお伝えしています。」

「新桶をつくる時、側板の側面や底板の裏等、目に触れないところに、その桶に関わった人たちがメッセージを書くのですが、『古き良きものを残すために進化しよう』、と書きました。古き良きものを残すとしても、そのままでは、その時代に合っていないと、使われないで、結局、その時代にも残らないと思います。」

ホップ・ステップ・ジャンプのホップの役割を

「僕は、つくり手ではないので、どこまで踏み込めるかわかりませんが、お客さんに対面販売しているという強みはあるので、フィードバックではなく、つくり手と一緒に取り組みたいんです。」

「僕の代では、入口をつくるところまでしかできないと思いますし、まだ、入口に立ったばかりですが、今、ちょっとそんなことができつつあるように思います。それができるようになった時に、ホップ・ステップ・ジャンプのホップの役割を果たしたい、と願っています。」

「結い物で繋ぐ会」の木桶修理現場

結い物で繋ぐ会

2019年9月、岸菜さんや司製樽の原田さんたちが立ち上げた、木桶職人集団、「結い物で繋ぐ会」が、日東醸造(株)足助仕込蔵の仕込用木桶の修理に来られると云う話を聞き、蜷川社長に、修理現場の見学に連れて行ってもらった。

 

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そこで出会ったのが、もう一人の桶職人、桶光(おけみつ)の宮崎光一(みやざきこういち)さんと原田さんになんと女性で弟子入りした、伊藤翠(いとうみどり)さんである。

宮崎さんは、小学2年生になる時に家族で長崎県五島に移住し、その近所にあった長崎県最後の桶屋である「大島勝」さんに出会い、お父様に付いて、一緒に通い、小学生4年生の時に初めて自分で桶をつくったそうだ。小・中学生時代は、学校帰りや夏休みや冬休みを利用して、桶づくりを学ばれた。

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九州大学農学部に進学して、山のこと、木のことを学んだ後、なんと、五島に戻り、再び大島勝さんの元で1年間修業して、2016(平成28年)4月1日に開業したそうだ。

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伊藤さんは、東京でのイベントに出展されていた大桶に魅了され、自分もつくってみたい、とそのイベントに来ていた原田さんに志願して、弟子入りし、住み込みの徒弟制度で、弟子入期間6年のうち、2年半が経過したそうで、大桶の修理に関しては、男性と同じ仕事をこなしておられた。

徒弟制度での修業は辛くないか、尋ねると、「やりたいことをやらせてもらって、楽しくて仕方がない。」とのことだった。

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日東醸造の蜷川社長によると、しろたまりの仕込桶は、老朽化で液漏れがひどくなり、ステンレスのワイヤで増し締めをしたが、液漏れが止まらず、竹箍で締め直せば止められる可能性があるとのことで、「結い物で繋ぐ会」に修理を依頼した、とのこと。

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実際、竹箍で締め直した仕込桶に水を張って漏れの試験をしているのも見たが、全く、漏っておらず、原田さんによると、ワイヤは点でしか締められないため、どうしても隙間が生じてしまうが、竹箍は面で締めることができるので、新しい箍で締め直せば、漏れが収まる可能性が高いそうだ。

原田親方

「ヤマロクの山本社長が『木桶職人復活プロジェクト』を始めてくれたおかげで、年に何本か新桶がつくられるようになり、弊社も2本購入することが出来ました。その一方で、弊社のように古い桶で仕込んでいる蔵はたくさんあり、修理が必要な桶も多くあるはずですが、ヤマロクの山本社長は、本業の醤油づくりもあり、出張修理まで手が回らないのは、明らかなので、『結い物で繋ぐ会』が、出張して、現場で修理や新桶づくりを始めてくれたのは、非常に有難いことで、彼らの仕事がまわるよう、木桶を使っている蔵の紹介もしています。」と、蜷川社長。

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「木桶職人復活プロジェクト」がきっかけとなり、木桶職人集団、「結い物で繋ぐ会」が生まれ、新桶づくり、木桶修理ができるようになって、日本の木桶文化が何十年か延命できた。

仕込桶

更に盤石になるよう、「結い物で繋ぐ会」の原田さん、宮崎さん、岸菜さん、伊藤さんに多くの若い木桶職人が続いて欲しいものだ。

COREZO古き良きものを残すために進化しよう、つくり手と一緒につくり、伝え、売る、旅するバイヤーである。

最終取材;2019年9月

最終更新;2019年11月

文責;平野龍平

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