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COREZOコレゾ「フツーがフツーでない一家に生まれ、育ち 類稀な直観力と行動力でおもろいネタをつくり いつの間にかヒトを巻き込んでしまう べっぴん姐御」賞
大島 幸枝(おおしま さちえ)さん
プロフィール
愛知県津島市
株式会社りんねしゃ 取締役
ジャンル
ものづくり・販売
食づくり・販売
経歴・実績
1983年 両親の意思で家族揃って山村移住。電気・ガス・水道のない自給自足の暮らしを始める。
1984年 「普通」の暮らしに憧れ、家族と離れ津島の祖母の元へ戻る。
1993年 専門学校卒業後、旅行会社へ就職。
1996年 旅行会社を退職し、実家のりんねしゃの手伝いを始める。
2015年 株式会社りんねしゃ取締役就任。
動画 COREZOコレゾチャンネル
大島 幸枝(おおしま さちえ)さん/愛知・無添加食品・りんねしゃ「動物的直感力でいいところを伸ばす」
受賞者のご紹介
りんねしゃの生い立ち
大島さんとは、日東醸造の蜷川社長のご紹介で知り合った。
-りんねしゃさん、って「輪廻転生」からですか?
そうです。両親が始めたのですが、物事は停滞したままではなく世の中に循環させることが大事、という意味が込められています。
-社会人になられて、すぐに継がれたのですか?
いいえ、継ぐ気なんて全然なくて、海外を飛び回る仕事がしたかったので、専門学校を出て旅行会社に就職しました。
弟から聞かれたかもしれないですけど、母が名古屋の西の、りんねしゃの本社がある津島市に嫁いで、母の生まれ育った地域の食事となんか味が違う、美味しくない、ってことに気づいて、何が違うのか調べていくうちに、食品添加物にたどり着いた。きっと、母の地元では、素材をそのまま食べてたんでしょうね。
さに、添加物を調べて行くうちに、環境問題に辿り着いて、合成洗剤の存在を知り、自然界で分解されない物を海に垂れ流しちゃイカンだろう、ということになって、合成洗剤をやめて天然石鹸を推進する運動を始めた。
で、地元のママさんたちと簡単な環境の勉強会みたいなのを始めて、「津島エプロン会」というチームができた。それで、津島市に「合成洗剤追放都市宣言」を出してくれ、っていう要望まで出したんですよ。
でも、ちょうど合成洗剤がどんどん出てきた時代で、天然石鹸を推進していても、売ってるお店がない。だったら、自分たちでつくっちゃえ、ってなことで、自分たちでつくったり、見つけてきた商品を物流させる「グループ輪」ができた。
そうなると、男手も必要になって、当時、学童保育の先生をやっていた父に、「ちょっとアンタ手伝って〜」みたいな感じで、元々、ウチの父と母は大学の同級生で社会運動もしていたんで、ノリが一緒で…。
で、2tトラック買って、地元で天然石鹸や無添加の商品をつくってる人や天然醸造の醤油をつくってる人なんかを見つけては、直談判して、それを「グループ輪」のメンバーで共同購入するような仕組みができた。
それからは、草の根運動みたいなものですよ。当時としては変わった活動だったから新聞に載ったりして、少しずつ人が集まり始まるんですが、そんなスタイルが長く続き、この先、会社組織にしないと続かない。社会的責任をまっとうするために「りんねしゃ」ができたのは、2000年です。
兵庫の山奥での自給自足の生活
母が「私は、まだほかにもやるべきことがある。だからアンタやって」ってことで、父が社長になったんです。
ウチは、6人兄弟なんですが、母親が「今の日本の学校教育を受けても生きる力が育たない」って言い出して、子供たちを連れて田舎に引っ越すから、父に「りんねしゃを頼む!!」と。ハハハハ。
それで本当に兵庫の山奥に引っ越して、ほぼ自給自足の生活が始まったんですが、その時、私はまだ小学5年生で、その田舎の生活がもう嫌で、嫌で、どうしても嫌だ、と云って、1人だけ逃げ帰って、おばあちゃんと一緒に暮らすことになったんですけど、私以外の兄弟5人はずっと、電気、ガス、水道のないところで暮らしてました。
勉強するぐらいだったら畑耕せ
勉強するぐらいだったら畑耕せとか、飼ってる牛の面倒みろとか…、そんな生活だから、ほとんど学校行かないわけですよ。
でも、ある程度の年齢になると、子供たちにも好きなとこへ行きなさいと、田舎暮らしは強制しなかったので、おばあちゃんの家に妹が帰ってきて、弟が帰ってきて…、もちろん、転校もするんですが、これが成績悪くて…。
「これはイカン!」って、自分で気づくから勉強するのね、「勉強するな」って言われてきた反動もあるのかもしれないけど、みんな、学年最下位だったのが、卒業する頃には、そこそこの成績に上ってるんですよ。
これが全部母親の計算づくだったらすごいな、と思うんですが、どうでしょうか…。
ピンクのミニスカートは我慢できないと家業のりんねしゃへ
―で、旅行会社の方は?
海外添乗員をして、お客様にいろんな観光地のいいところをご紹介したり、ご案内したいという夢があったんですよ。まずは、国内添乗からはじめたんですが、私の思い描いていた添乗員とは違っていて、消防士さんの旅行だと、ピンク色のミニスカートをはいて来いとか、宴会も最後までいろとか、云われて、今でも覚えていますが、消防士さんの旅行で、力づくで無理矢理、担がれて秘宝館のようなところに連れて行かれたことがあって、それが怖くて、我慢できなくて、会社に直訴したら、我慢しろ、それが仕事だ、って云われて、こんなのやってらんない、って、辞めました。それでも1年半ぐらいは勤めましたが。
―辞めてすぐに家業を?
私は、子供の頃から、結構、モノをつくるのが好きだったんで、家の仕事は手伝っていたんですよ。
ちょうど旅行会社をやめた頃に、私たちの面倒を見てくれていたおばあちゃんが亡くなり、ずっと田舎暮らしを続けていた母親がこっちに帰って来て、おばあちゃんがやっていた会社をどうしよう、りんねしゃをこれからどうしよう、ってことになっていました。
祖母が亡くなったので、家事をしながら、仕事も手伝っていたら、何を思ったのか父から、「小売りだけでなく、卸もしてみんか。もっと外の世界をみて叩かれてこい。」って云われて、元々、あっちこっち行くのも、いろんな人と会うのも好きだったんで、やりたい、って即答したら、とにかく、自分で経験して、自分で失敗して、自分の力で販売してこい、って放り出されたんです。
それで、軽自動車に商品を積んで東京へ行き、電話帳で自然食品店を調べて、訪問しているうちに知り合いができて、遊びがてら営業に回っているうちに、取り扱ってもらえるようになって…、自分で自分のつくっているものが売れるって楽しいじゃないですか?
育てた牛を捌いて、フツーに食べる生活
それから、仕入先にも顔を出すようになって、醤油蔵とか、味噌蔵とか…、で、これは、ああですね、こうですね、って話していたら、生産者の皆さんからなんでそんな違いがわかるの?って云われて、それで、ウチは、昔からいいものを食べてたんだなぁ~って、気が付いたんですね。ウチでは、母親が育てた牛を捌いて、フツーに食べてたんです。
―えっ、フツーぢゃないですよ。
今でも、年に4頭ツブして、枝肉にしてもらって、それを弟が肉屋さんに持って行って、精肉してもらって、仲間内に分けていますし、正月には飼っている鶏を絞めて食べてたんですが、そんなことを話すと、ウチではとってもフツーだったことに皆さん驚かれるので、そんなのも大事にしないといけないなぁ、って。
―一昔前は、地方では当たり前だったんですよね?
そうそう、そうなんですけど、私たちの世代で、実体験してるってなかなかないよ、っておもしろがられて、ウチのお店に行ってみたいって、来て下さるようになり、お店をやるのが楽しくなって、今に至るって感じですね。
ポテトチップスが食べたい…
私は、牛も鶏も肉はあまり食べたくなかったし、玄米だってすごくいやだった。お弁当に玄米なんて30年前ですからね・・。今ではおしゃれとか言われるかもしれないけどあの頃は最悪ですよ。ポテトチップスが食べたい、と云うと、よっしゃ、って、ジャガイモ切って、揚げ始める母親でしたから、自分は周りの子たちと同じことをしたかったんで、反発したし、家のことを毛嫌いしていました。隠れてポテトチップ買って食べた時の美味しさったら!!!
―おかあさん、凄いですね?子供の頃からメシアを育てていたんですね。
ハハハハ、だってさ、ジャガイモなんて買ったら高いけど、自分の畑で簡単にできちゃうし、何百円も出して化学調味料だらけのそんなの買うぐらいなら、自分ちでつくった方が、早いし、安いじゃん、って、そんな母親なんで、実は、あんまり社会的思想もなかったりして、ハハハハ。
りんねしゃで働くようになって気づいたこと
でね、社会に出て、旅行会社で働いて、理不尽な目に遭ったじゃないですか?それまでは、母親であっても、父親であっても、話し合って解決するとか、ウチの周りの生産者の皆さんなんて、有機とか自然食が話題になるずっと前から、自分の私利私欲より、次の代に継いで行くことを大事にしておられる方ばかりで、そんな方々に囲まれて育ってきたことに気付いたんですね。
りんねしゃは、そういう環境で育ってきた自分には居心地がいいし、これをやってやろう、とか、これを目標になんて、何にもなかったんですが、やっているうちに、楽しくなってきたし、気が付いたら、こっちの方向に進んでた、って感じですね。
りんねしゃでの役割分担
―会社内で弟さんとの役割分担とかってあるんですか?
ゼーンゼン、何も決まってなくて、適材適所で、おたがい好きなことをやってるんですが、私がいろんなとこに行って、あれやろう、これやろう、って引き受けてきたことを、「またかよ~」とか云いながら、カタチにしてくれたりとか、弟とは、お互いの得意なことと苦手なことのバランスが偶然にもいいんでしょうね。
会議もしたことがないですが、弟のしたい事は何となくわかっていて、私は、2~3年後のりんねしゃのことを考えて常に動くから、アンタは、10年後、15年後のことを考えて動けばいいんじゃない、ってそんな感じです。
―重要案件に関しては?
それは相談しますよ。代表取締役は父なので、父にも相談しますが、オレは、オレのやりたい事があるし、りんねしゃはお前たちに任したんだから、報酬をもらわない代わりに、おとうちゃんの好きにさせてくれ、なんですよ。
今、ウチの父は北海道で薄荷や除虫菊をつくってるんですが、できるまでが楽しいらしくて、ウチらは、できたら、売らなきゃいけないじゃん、売るにはどうすればいいか、父の話していることを文章にして、「父の気持ち」をどうやって伝えるか…、なんてことを考えて世に出しています。
世の中にはお金が必要だということにようやく気づいた
いつも雑談の中から、思いつきで、これやりたーい、っていうのが出てくるんですが、私の想いを具体的にカタチにしてくれる奇特な人が時々いて、そういう方に手伝ってもらたりして、なんとかやってきましたが、ついこの間、世の中にはお金が必要だということにようやく気付いたような次第で…。
兄弟姉妹6人のバランス
私も弟も(無責任かもしれないけど)本能で、なんか違うなぁ、しっくりこない、と思ったら、止めるんです。それは、ウチは6人兄弟姉妹なんですが、小さい頃から、父は、家族、兄弟仲がいいのが一番幸せだから、ってそこに何か亀裂が入りそうな予感がすることは全部止めるように云われて育ってきたからというのもあると思います。
それに、子供の頃、ああいう田舎での自給自足の共同生活をしてきたこともあるだろうと思いますが、自分が何をやったら、兄弟姉妹6人のバランスが上手く取れるかは、皆んな考えてやっています。
りんねしゃは私と弟ですが、母は、介護施設もやっていて、妹たちはその会社に入っています。ウチの父がスゴイな、と思うのは、こういう環境で育った子供たちは会社員にはならんだろうから、経理に強いのが1人はいた方がいい、って真ん中の弟を税理士にしたんですよ。でも、父は、専属の経理は、身内はダメだ、って、弟には、経理や経営のアドバイスをしてもらっています。私は、数字に疎いんでとても助かっています。
自分がおもしろいと思えることをやり続けたい
―今後は?
こうありたい、と云うのはあるんですが、それをシステム化できないのが、大きくなれない原因だと思います。
―でも、大きくなりすぎたら、りんねしゃさんのおもろさはなくなりませんか?
そうですか?
―目が行き届かなくなりません?
それはそうですね、そうなると、自分もおもしろくなくなりそうですね。
どこに、どんなご縁があって、商売に関することだけでなくて、どんなヒントが埋もれているが、わからないでしょ?私は、いろんなところに行って、いろんな人と出会うのが大好きで、世の中には、へぇーっ、こんな活動があるんだ、と感心するような、私の知らない世界が山のようにあって、常に刺激をもらっています。
それが原動力にもなっていると思いますが、これからも自分がおもしろいと思えることをやり続けて、りんねしゃの活動や取り扱かう商品を通じて、素晴らしい生産者の皆さんとそれを求める消費者の皆さんを結び、次の世代に繋げたい、と願っています。
大島さんは、近しい人々からさっちゃんネーさんと呼ばれていて、ひとりのおネーさまとしても、ヒトとしてもめっちゃチャーミングな方で、直観力のひとだと思う。おもしろいことに対するアンテナが敏感で、あちらこちらを飛び回っておられるだけに、引き出しが多く、次から次から、おもろいネタが飛び出し、話題が尽きることがない。
自分がおもしろいと思うことにヒトを巻き込む達人だ。このりんねしゃの幸枝さんと裕光さんをこの世に生み出した、おとうさまとおかあさまにもお目に掛かってみたいものだ。
COREZOコレゾ「フツーがフツーでない一家に生まれ、育ち、類稀な直観力と行動力でおもろいネタをつくり、いつの間にかヒトを巻き込んでしまうべっぴん姐御」である。
文責;平野龍平
最終取材;2016.06
初稿;2016.10
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