公文 潔(くもん きよし)さん/多国籍料理「SO-AN」

COREZOコレゾ「世界中の波に乗って、食の大切さを学び、おいしい料理にして伝える、自由に生きる不自由さも知る多国籍料理人」賞

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公文 潔(くもん きよし)さん

プロフィール

高知県高知市出身、在住

多国籍料理「SO-AN」店主・料理人

http://r.gnavi.co.jp/f7s6dcey0000/

NPO法人「仁淀川お宝探偵団」理事

ジャンル

食・食文化

多国籍料理

河川環境保全

流域地域振興

経歴・実績

1977年頃  サーフィンを始める

1985年頃〜 トラベリング・サーファーとして世界中の波に乗る

1995年頃〜 主夫業

1999年   「ノストラダムスの大予言」人類滅亡の年

2009年   多国籍料理「SO-AN」開店

受賞者のご紹介

トラベリング・サーファーから多国籍料理人へ

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公文 潔(くもん きよし)さんは、仲間の皆さんから、潔(きよし)さんと呼ばれる、高知市宗安寺にある多国籍料理「SO-AN」の店主、兼料理人。

2013年5月、神野 浩史(じんのひろし)さん宅宴会で出会った。最初は、胡散臭さそうな大阪弁のおっさんに警戒心全開のご様子だったが、COREZO(コレゾ)賞・財団の趣旨の説明をしたところ、興味を持って下さったようで、一気に打ち解けた。

その時、料理を何品か、差し入れて下さったのだが、これがバツグンに旨かった。その上、宴会後の神野さん宅の台所の後片付けも潔さんがして下さったのだが、これも完璧で、この人、タダもんではないと直感し、翌日、多国籍料理「SO-AN」にランチを食べに伺った。

場所を確認するのに、多国籍料理「SO-AN」で検索しても、ホームページはなく、利用客のブログがたくさんヒットした。知らん人の意見等、ほとんど信用しないが、ネガティブな評判が全くないのである。

 

鏡川に面した古い家を改装したお店で、こだわりのスピーカーから、7〜80年代のLPレコードの音楽が流れ、どこかで見たことのあるような懐かしい雰囲気だった。よくよく考えると、神野さんのFacebookで、こちらで開催されたであろうパーティーの写真を見たのを思い出した。

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その日頂いたのは、日替わりランチで、揚げたての小魚がメインだった。味付けの異なる野菜料理がプレートに5〜6品盛りつけられていて、一口食べれば、一切手抜きなしとわかるおいしさで、とっても幸せな気分になった。これを680円の幸せというのである。

それもそのはずで、野菜は自分でも作っておられるそうだが、毎日、親しくされている農家や市場に出掛け、地元の旬の食材の中から、潔さんが食べたい食材、お客さんに食べさせたい食材を選んで料理しておられる。

また、別の日の夜(夜は予約制)には、潔さんの親しい仲間の皆さんが集まる会合にもお邪魔した。皆さん、潔さんの料理のファンで、フレンドリーな方ばかり。パエリアやタジンなど、次々に出てくる多国籍料理に舌鼓を打ちながら、大いに盛り上がった。

この時の会費で、潔さんは儲かるのだろうかと気になって尋ねると、「損はせんから、心配ないき、それよりもお腹いっぱいになった?」と潔さん。

で、お店には何度かお邪魔したり、近所まで伺ったりしていたのだが、取材をさせて頂くタイミングが合わず、結局、2013年10月、電話でお話を伺った。

地元では名を馳せたサーファー

ー 高知では有名なサーファーと伺いましたが、今でも波に乗っておられるのですか?

「全然、有名でも何でもないきが、最近は、ちょっと時間が取れるようになったので、週に1〜3回ぐらいかな、行ける時に海へ行くって感じやね。昨日も行って、結構、大きな波に乗ったんだけど、海に落ちちゃって、アバラが1本折れたみたい。」

ー えーっ!折れたみたいって、大丈夫ですか?

「うん、ちょっと痛いから病院に行って検査したら、1本は折れているって。もう1本、疑わしいのがあるけど、判断できないって。気持ちはいってるきが、身体がついて来んって感じ。もうトシやね。笑っといて下さい、ハハハハ。」

ー 笑い事やないでしょ、コルセットとかしてるんですか?

「いや、何もしてないよ。そのうちくっつくから大丈夫。」

ー とにかく、お大事にして下さいね。ところで、サーフィンはいつから始めたのですか?

「14歳の頃かな、友だちのお兄ちゃんに連れて行ってもらって始めたけど、最初は、ウェットスーツも持ってなかったから、夏場だけで、本格的に始めたのは車の免許取ってからやね。四国だけでなく、九州とか、いい波があるっていう海岸には出掛けてましたよ。」

トラベリング・サーファーになったワケ

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ー 海外にもよく行っておられたとか?

「そう、22歳ぐらいからかな、まず、ハワイに行って、それから、北米大陸を西から東へ横断して、マイアミから南米に行って、ブラジル、チリ、海はないけど、ボリビアも行ったなぁ。オーストラリアにはワーキングホリデイで1年ぐらいいたし、後は、誰も乗ったことのないバージンウェーブに乗りたくて、マダガスカル、モーリシャス、ガーナ、モロッコとか、コートジボワールなんかは、サーフィンやっているフランス人はいたけど、多分、僕が初めて波に乗った海岸もありましたよ。最初にハワイに行った時に、片道の航空券で行ったから、向こうからの往復の航空券を買うようになって、ハワイやアメリカ、インドネシア、タイなんかはしょっちゅう行ってましたね。」

ー プロサーファーだったのですか?

「いやいや、雑誌に取り上げられたりしたので、いくつかのスポンサーから、道具をもらったりしましたけど、商品のテストライダーみたいなもんやね、競技大会に出場する訳ではなく、とにかく、世界中の海に行って波に乗りたい、トラベリング・サーファーでした。」

ー 費用はどうしてたのですか?

「うん、半分はこっちで働いて、半分は向こうでサーフィンみたいな生活を32歳までしてましたね。」

ノストラダムスの大予言⁉︎

ー 何がそうさせたのですか?

「小学生の5〜6年の頃かなぁ、ノストラダムスの大予言ってあったでしょ?あれを信じ込んでしまってね、僕が36歳の時には、人類は滅亡するはずだったんですよ。だから、それまでは、好きなことをして生きようと決めて、その通りに実行しただけなんです、ハハハハ。」

ー ホンマでっか?

「ホンマ、ホンマ、本気でそう思ってやってました。」

32歳でトラベリング・サーファーをやめて主夫をしていた⁉︎

ー へぇーっ、タダもんやないと思ってましたが、やっぱり、タダもんなかったんですね。で、何で32歳で止めたんですか?

「ま、それは、世界中、色々、見て歩いているうちに海外青年協力隊の活動をしたくなって、日本に戻って来たら、とある出会いがあって、子供が生まれて、主夫をすることになって、育児と家事に専念することになりました。」

ー で、1999年に人類は滅亡したのですか?

「んー、どうしてだか、まだ、生きてますね、ハハハハ。子供が生まれて、子供の未来のことを考えると、人類が滅亡しないように環境問題にも関心を持って取り組むようになりましたけどね。」

多国籍料理「SO-AN」を始めたワケ

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ー 料理が好きで、「SO-AN」を始められたと伺いましたが?

「ま、そうですね。僕のばあちゃんは、高知城の傍で、当時、結構有名だった町のレストランをやっていて、西洋料理、中華、和食も出していましたねぇ。お小遣いはもらえるし、好きだったので、小学生の頃から手伝っていて、お漬けものを小皿に盛って、並べたり、皿洗いをしたり、日曜市の買物について行ったりしているうちに、料理人になりたいなと思い始めていました。」

「それで、料理人になりたいと言ったら、親に反対されて、家が建築事務所をしていたもんですから、大工ならいいと言われて、4年間、大工修行をしましたが、そのうちに、サーフィンに打ち込むようになって・・・。」

「日本にいる時は、短期で稼ぐ必要があれば、期間労働の仕事を探して、働きに行きましたが、それ以外は、色々な料理屋さんで調理のバイトをしていました。特に、高知では有名な、『おむすびのよこやま』や『草や』というお店の横山礼子さんには、料理の基礎と料理に対する料理人の姿勢なんかを教えてもらいました。」

トラベリング・サーファーしながら多国籍料理を覚えた?

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ー 「SO-AN」で出しておられる多国籍料理は、サーフィンで世界中を旅して覚えられたのでしょ?

「貧乏旅行ですから、海外では、基本的に自炊をしていたので、現地の食材で現地の料理を作るのが一番安くつくし、おいしい。それに、いろいろな所で、居候させてもらっていたので、そこでおいしい料理を作って気に入ってもらえば、長く置いてもらえるでしょ?お金がなくても旅する知恵ですね。食べたらだいたいわかりますが、つくり方がわからなければ尋ねますし、そのうちに、自然にいろんな国の料理が身に付きました。」

ー 「SO-AN」を始められたのは、子供さんに手が掛からなくなったからですか?

「そうですね。三度、三度の子供の食事は全部、僕が作っていましたし、子供の健康のことを考えて、家庭菜園ですが、自然農で野菜も作っていました。その間も、フランス語教室なんかからも頼まれたりしたら、料理を作っていましたが、子供も大きくなったので、そろそろ、自分のやりたいことをやろうということで、2009年に『SO-AN』をオープンしました。」

「SO-AN」と潔さんの周りにはいつも人が集まってくるワケ

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ー 「SO-AN」と潔さんの周りにはいつも人が集まってくるという印象があるのですが?

「僕にはわからんけど、僕みたいに、自由に生きていても、こうして、なんとかやれてるからかなぁ。」

潔さんをよく知る方にこのことを尋ねると、

「そうやねぇ、彼はあまり言わないけれど、世界中を巡って、いろんなものを見て、いろんなことを経験して、いろんなことに気付いたんじゃないのかなぁ。今の日本は飽食の時代といわれてますが、きっと、海外では食べることにも相当、不自由したんだろうと思いますよ。それに、現代社会の常識にとらわれず、自由に生きるってことは、逆にすごく不自由というか、物凄いエネルギーの要ることでしょ?それを実際にやって来たから、今の彼がある訳で、今の時代に煮詰まっている人は多いから、そんな彼が発している何かに魅かれる人も多いような気がしますね。」

んー、確かに・・・。

『里山を食す』という料理のワークショップの講師に

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ー 土佐山アカデミーのパンフを拝見していたら、潔さんも紹介されていましたよ。

「そうそう、2回程、『里山を食す』という料理のワークショップの講師をしましたね。地元の食材で、一緒に料理を作って、ランチを食べるというような感じでしたね。」

ひとりひとりが『食』を大切にするようになること

ー 潔さんとSO-ANがどうなって行くか楽しみなんですが?

「ハハハハ、どうもならんきが、生産者がせっかくいい農産物や食材を作っても、売れなければ、食べて行けんでしょ?その良さがわかる消費者を直接つなぐしくみを作りたいなぁ、なんて漠然と考えています。」

「食材をつくる現場を知るところから、いい食材を選ぶ目を養い、そのいい食材はどう料理すれば、おいしく食べられるかを学んで、一緒に料理して、食べる。当たり前のことなんだけど、人間が生きていくには、『食』って不可欠でしょ?人間が『生きる』ということ、『食』の大切さ、そういう根本的なこと、学校では教えてくれないことを学べる場というか、『SO-AN』をそういう体験型のレストランにしたいですね。」

「世界には、子供たちが飢餓に苦しむ国がある一方で、毎日、大量の食品を廃棄している国もあります。ひとりひとりが『食』を大切にするようになれば、そういう食に関する問題も、ひとつひとつ解決できるように思います。」

体験型クッキング&ファームステイの夢

 

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「『SO-AN』もいつまでやれるかわからないし、何のメドも、何のアテもないけれど、ゆくゆくは、体験型ホームステイというか、そういうことを短期でも、長期でもええんですが、滞在できて、実際に体験しながら学べる場をつくりたいなぁ、なんて妄想しています。」

COREZO(コレゾ)賞・財団の趣旨はよくご存知なので、受賞のお願いをしたところ、ご快諾頂いた。

千葉の佐藤文彦さん(故人)は、「くりもと地球村」を創り、自然循環型農業の体験型ファームステイを実現されたが、潔さんには、クッキング&ファームステイを是非、実現して頂きたい。

COREZO コレゾ「世界中の波に乗って、食の大切さを学び、おいしい料理にして伝える、自由に生きる不自由さも知る多国籍料理人」である。

COREZO (コレゾ)賞 事務局

初稿;2013.10.18.

最終取材;2013.10.

最終更新;2013.10.18.

文責;平野龍平

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