金石 健太(かねいし けんた)さん/小布施堂・元修景事業部

COREZOコレゾ「おもしろい人が集まる仕組みをつくろうとして、いつの間にやら小布施のおもしろい人になっていた、よそ者、若者(期限間近)、バカ者」賞

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金石 健太(かねいし けんた)さん

プロフィール

長野県小布施町

小布施堂 製造本部 製造部長

朱雀菓子職人

株式会社修景事業 足袋(たび)人

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西山 哲雄(にしやま てつお)さん

プロフィール

長野県小布施町

小布施堂 製造本部 仕入部長

株式会社修景事業 足袋(たび)人

ジャンル

地域・まちづくり

住まいづくり

修景事業

受賞者のご紹介

金石 健太(かねいし けんた)さんは千葉県船橋市出身、西山 哲雄(にしやま てつお)さんは静岡県沼津市出身、長野県小布施町にある栗菓子の「小布施堂」製造本部の製造部長と仕入部長で、株式会社修景事業部の足袋(たび)人でもある。

2013年7月、カワラマンの山田脩二さんと小布施に小布施堂社長の市村 次夫(いちむら つぎお)さんを訪ねたが、海外旅行中でご不在だったため、滞在中、このお二人が対応して下さった。

COREZO(コレゾ)財団・賞のことをお話ししていたら、「おもしろそうなので、3回目の表彰式の開催場所がまだ決まっていなかったら、小布施でやりませんか?」という話を頂いた。そして、市村社長と小布施町長の市村良三さんにもご了解を取って下さって、開催させて頂くことが決まった。

2013年4月と7月に、その打合せに小布施を訪れた際、お二人にお話を伺った。

「小布施町町並み修景事業」とは?

 

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金石「1980~87(昭和55~62)年に、市村町長や市村社長が中心となって推進した、そこで暮らす人の視点に立って、小布施堂界隈の町並みを美しく再構築した事業のことです。」

「一人の建築家をコーディネーターにして、行政、個人、法人という立場の異なる地権者が、対等な立場で話し合いを重ね、土地の交換や賃貸により、地権者全員にメリットがあるように、古い建物も壊さないで、伝統的な技術の曳き家で配置換えをしました。」

「国からの補助金等に頼ることなく、住民主導で新旧建築物の調和する美しい町並みをつくるというこの画期的なやり方は、『小布施方式』とも呼ばれ、今でも、全国から注目されています。」

株式会社修景事業とは?

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西山「小布施は北信濃に位置する人口1万2000人の町ですが、年間120万人もの観光客が訪れます。人口の100倍の人々がこの小さな町に訪れるのは、一つには、『小布施町町並み修景事業』以来の考え方、精神がベースにあって、小布施の町並みが、土蔵や土壁、茅葺き民家など、住民の生活感があるのに、昔ながらの風情を残す豊かな空間だからではないかと思います。」

「土壁、瓦、茅葺き、木造……。小布施だけでなく、日本の村や町には、風土を生かしたすばらしい職人の技術と、その技術に支えられた人々の暮らしと文化がありました。日本の伝統的な職人の仕事からは、現代社会にも通じる、持続可能性、地域循環、自然素材、大地にやさしい暮らし等々のヒントが見えてきますが、この小布施でも、その伝統技術とその担い手は先細りの一途です。」

「今では、建築の世界は、設計者と職人の2つの職能に分かれていますが、戦前までは、職人とは、設計者の役割も担う人のことでした。我々は、古民家・町並みの再生を中心にした職人技術を継承して行くには、それをもう一度、現代に合った形で、ひとつにつなぎ、昔できた職人の仕事を今でもできるようすることが重要ではないかと考えました。要は、分業化が進んでいる建築業界で、昔の大工さんがそうだったように、自分たちでできることは、設計、施工も含めて、何でもやろうということです。」

金石「そういった背景があって、2004年、小布施堂と地元建設会社が出資して、新たに設立した建築会社が、株式会社修景事業です。小布施堂に入社した信州大学工学部建築科修士課程で古建築を学んだ僕と西山、西山の同期生の3名、その建設会社からの出向社員1名で始めました。」

「『修景事業』では、古民家の再生というより、古民家の“修復”を目指しました。古民家の再生は社会的にも評価され、また古建築やその部材の市場も成立しつつありますが、その一方で、古民家がその集落から移築されてしまうケースがほとんどで、その場で修復され、しかも内部空間はリニューアルされるような古建築の修復はほとんど行われないのが現状です。」

「その結果、美しい農村集落の消滅が進んでいて、これに歯止めをかけることを『修景事業』のミッションにしていましたので、『葛屋根』(茅葺きや麦藁葺きの屋根のこと)の葺き替えや、古瓦の収集、本格的な壁塗りなどはもちろん、農家のたたずまい保持に必要な植栽や土工事や石垣積みなど、広範囲な技術と知識を学んで実践していましたが、小布施堂の方の仕事が忙しくなって、現在は、活動を休止しています。」

小布施に来られたきっかけは?

金石「大学の修士課程で曳き家の調査研究をしていたのですが、院生の1年目に、たまたま、小布施を訪れて、町をぶらぶら歩いていたら、曳家の金田工業所さんが、小布施堂の裏手にある茅葺きの建物を曳いておられたんです。思いがけず、曳家の現場を見せてもらえるのは、ラッキーだったので、何の面識もなかったのですが、挨拶をして、見学させてもらい、毎日通っているうちに、親方の金田さんと親しくなりました。」

『小布施ッション』とは?

金石「その金田さんから、今度、『小布施ッション』に有名な建築家が来るよ、って連絡をもらって、出掛けたんです。始まって2年目の2002年8月の第13回目でした。『小布施ッション』というのは、小布施で、2001年8月8日から始まった、毎月一回、ゾロ目の日に催されていた文化サロン的なイベントです。各界で先駆的な仕事をしている講師を招いての講演会の後に、懇親会があり、おいしい小布施の料理と酒を楽しみながら、情報交換とおもしろい出会いを重ねる会で、2013年7月7日まで、12年間144回続きました。

「COREZO(コレゾ)賞を受賞されている吉田桂介さんや梅原真さん、上芝雄史さん、山田脩二さんも講師をされています。」

小布施には、おもしろい大人がいっぱいいる⁉︎

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金石「講演会、懇親会、2次会を通じて、有名な建築家の先生と直接、話せた上に、小布施には、市村社長、市村町長、セーラさんをはじめ、おもしろい大人がいっぱいいるのを知って、大学へは行かずに、セーラさんがやっていた文化事業部に入り浸るようになりました。突然、瓦を焼くだのっていうハナシが耳に入ってきたりして、とてもワクワクする毎日でした。長野で瓦を焼いていないとか、今は工業製品しかないってことは、小布施で学びました。」

結局、履歴書は1枚しか書きませんでした

金石「院生の1年の秋になっても、就職活動らしい活動もしないまま、アルバイトにしてもらって、入り浸っていました。その内、『修景事業』という、魅惑的な事業名がチラホラ耳に入ってきたりして、会社の雰囲気はある程度わかっていたので、『一度、面接してもらえませんかねぇ。』って、それとなくお願いをしていたら、ある日、突然、『今日、午後からしましょう。』といわれて、『よっしゃ、来たぞ!』って、いつ言われてもいいように、車にはスーツも準備していましたからね。」

金石「社長をはじめ、面接してもらった役員全員から、将来ある若者が、こんなよくわからん事業はやめた方がいいだろう、もっといい仕事、就職先があるだろ、と口々に、散々、言われた挙げ句、じゃあ、まぁ、決まり、ということでと、2年生の4月に内定をもらって、そのまま、さらに1年間、アルバイトとして過ごしました。結局、履歴書は1枚しか書きませんでした。

僕は履歴書2枚書きました

西山「僕は、金石さんの1年後輩なんですが、普段、食えないような、ウマいもんがタダで食えるぞ、って聞いたものですから、ハハハハ。早速、次の第14回目から、参加するようになりました。学生は無銭飲食をさせてもらえたので、その日の朝から行って、草むしりや掃除や会場準備の手伝いをしていました。院生2年になって、そうそろ、就職活動をしなきゃ、と思っていたら、セーラさんから、あなたも来ない?って電話があって、結局、就職活動はしませんでしたが、履歴書は2枚書きました。」

金石「今から思えば、草むしりや掃除や手伝いなんかを楽しんでできるかっていうようなことを、結構、試されていたような気がしますね、ハハハハ。」

入社して、どんな仕事を?

金石「新入社員研修の途中で、茅葺きの現場に行くように言われたので、ヨッシャーっと、僕だけ抜けて、現場に入りました。半年やったのですが、現場に来ていた茅葺き職人の親方の力量の問題か、上手く仕上がりませんでした。今ならもっとなんとかできたと思うのですが、当時、まだ、入って1年目で、よくわからなかったのもので・・・。」

「その茅葺きの現場が終わると、『桝一客殿』の工事の準備が始まりました。『桝一客殿』は、長野市にあった大正・昭和初期建築である砂糖問屋の土蔵(倉庫)3棟を移築して、既存建物2棟、新築建物1棟で構成された宿泊施設で、ご存知のように、東京のパーク・ハイアットと同じ、香港在住のジョン・モーフォードさんという建築家の設計でした。」

外国人建築家の設計で苦労されたのは?

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金石「先にできた和食レストランの『蔵部』もその人の設計だったのですが、日本のやり方とは、全く違うので、施工を請負った地元の建築会社の若い現場監督では対応できず、ベテランの現場監督に代わって、なんとかやりくりして完成させたそうです。」

『桝一客殿』もその地元の建築会社が施工して、株式会社修景事業がその施工管理をしました。しかし、実務経験がない若僧3人ではどうにもならないので、そのベテランの社員さんに出向で来てもらって、我々は、その方から実務を学びました。」

全体像が決まらないままに着工するって?

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ー 客殿の設備も什器もほとんど全てがオリジナルのように見受けましたが、建築家さんは、現場には立ち会われたのですか?

西山「いいえ、時々、来る程度でした。おっしゃるように全て建築家が図面から起こしたオリジナルです。詳細な図面はもらうのですが、現場の収まりが悪い時には、何度も図面のやりとりをして大変でしたね。多分、日本では、一般的なやり方ではないと思うのですが、我々は、始めての現場だったので、こういうものかという感じで、特に違和感はなかったです。但し、他所の現場と明らかに違うのは、全体像が決まらないままに着工するんですよ。平面図が出来ていないのに基礎を打つんで、今から思えば、よくやったなぁと思いますよ。」

建築期間は?

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金石「僕が入った時には、一部、基礎が出来ていて、客殿をやり始めた頃でしたが、途中で中断して、宿泊客の朝食場所をつくるのが先とかで、洋食レストランの傘風楼の改装に取り掛かって、2年目の夏に完成し、それから、客殿の工事に戻って、2年ぐらい掛かりましたね。」

その後の修景事業の活動は?

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西山「茅葺き屋根の建物の周りの土塀の修復をしたり、写真館といって、長い間、写真館として使われてきた小布施町内にある大正時代の商家建築を借りることができたので、その修復に取り掛かったり、枡一の麹室の修復なんかを手掛けました。麹室を解体する時に、土壁に籾殻が入っているのを見て、大杜氏に教えてもらいながら、籾殻が入った土壁を修復し、内壁は、秋田杉がいいって言われたので、秋田まで買いつけに行って、張りました。」

金石「茅葺きの現場に手伝いにもよく行っていて、茅葺きのコストが高い理由は、材料半分、手間半分というのが見えてきて、自分たちで茅を調達すれば安くなるのではないかということで、勝手に茅刈りを始めました。山裾を車で走っていると、休耕地に生えているのがわかるので、持ち主を探してお願いすると、大抵は、刈らしてくれるんですよ。茅を干す風景をつくるのが好きで、やっていましたね。出来た茅は、ある旧家の茶室に使ったり、2008年に満600年を迎えた小布施にある重要文化財の浄光寺薬師堂の茅の葺き替え作業だとか、茅葺きは、全部で10棟ぐらい関わりました。」

西山「あと、外注では、民家の新築や納屋や土蔵の改修だとかをやっていましたが、人間3人の給料を賄えるほどの仕事は廻っていませんでした。」

いぶし瓦を焼く「だるま窯」を作ったワケ

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金石「地瓦を復活するためのプロジェクトを立ち上げて、国へ特区を申請したのが、確か、2005年でしたが、煙の問題とかがあり、窯をつくる場所がなかなか見つからなくって、延び延びになっていました。2009年、有難いことに、ある民間財団から助成金をもらうことができて、窯の材料費に充てました。それで、その年度内にやらなくちゃいけないので、慌てて、場所を見つけて、年明けに着工したのですが、最終的に完成したのは翌年度になっていました。」

「だるま窯」のつくり方は?

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ー 自分たちで造られたのでしょ?どこで教わったのですか?

西山「群馬県甘楽町の福島という集落には瓦屋さんが多いのですが、だるま窯だけを造る窯つき職人さんも残っておられて、そこでだるま窯を復元するというんで、手伝わせてもらって、覚えました。その時の写真やデータは僕たちの方が持っていると思います。」

瓦を自前で焼けない理由

ー 窯を造ったのは修景事業で使う瓦を自前で焼く目的では?

金石「そうです。瓦を自分たちで土からつくろうとしていたのですが、何の道具もないので、つくれないのです。窯はできているので、粘土を瓦の形に成型して乾燥させた白地(しらじ)を買ってくれば焼けるんですが、それでは意味がないので、時々、火を入れて、敷き瓦や鬼瓦を焼いたり、古い瓦を焼締めたり、いぶし直したりはしています。実は、小布施でも1950年代までいぶし瓦を焼いていたようで、この辺りで瓦用に採っていた土の場所は突き止めて、採らしてもらえるようにはなっています。」

修景事業の現状は?

金石「修景事業にいたもう一人は大工を目指したいと退職して、2012年頃から、僕も西山も、小布施堂の方の仕事が忙しくなって、修景事業の方は、実質、休止状態ですね。」

小布施のひとつの時代が終わったとは?

金石「セーラさんがやっていた文化事業部の取組みも、2002年に発足した『桶仕込み保存会』、2003年から始まった『小布施見にマラソン』以降は、特に真新しい動きもなくなってしまいました。『桶仕込み保存会』も2008年以降は、活動休止状態になり、『小布施見にマラソン』は今年も実施しますが、来年度以降は、町が主導する予定です。」

「特に、『小布施ッション』が、2013年7月7日に12年間144回で幕を閉じたことが、『小布施ッション』に参加したのがきっかけで、小布施で働くようになった僕たちにとっても、ひとつの時代が終わったような象徴的な出来事でした。セーラさんも小布施堂から独立して、株式会社文化事業部も全く別法人になりました。」

修景事業の今後は?

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西山「修景事業でやって来たことも、自分が個人的にやって来たことも、やりっ放しになっていることはもったいないとは思いますが、やって来たことに関しては無駄だったという感覚はあまりありません。結局、修景事業も含めた小布施堂全体で見ても、何もかもやりっ放しで来ていて、何も残っていないのですが、それはそれでいいのではないかと思っています。」

「というのも、これから、小布施堂も我々も変わっていかなければならないのですが、今までに見たこともないお菓子が開発されて、バカ売れして、画期的に方向性が変わるということではなく、この会社がとにかくいろいろやったことは、それぞれに経験として残っていて、その数多くのやりっ放しでやり残したことの中にさまざまなヒントが隠れているような気がしています。」

金石「僕らは、凄く恵まれ過ぎていたというか、今だからわかるのですが、ぬるま湯の中でアグラをかいて、ずっとやっていたような気がします。ビジネスとして成立させる気概でやっていたかというとNOで、小布施堂という恵まれた環境に保護されていたというのは、その現場にどっぷりと浸かって働くことでわかったというか、今は、身にしみて感じています。」

これからのお二人と小布施について

金石「特に、町のためにこういうことをしなければならないとか、これを残さなければならないとか、例えば、崩れた土壁の風景とか、だるま窯焚き、茅刈りを残したいというような意識も使命感もなくて、また、セーラさんが我々にいろいろ出来る環境を作ってくれたから、今度は、我々が、次の世代にそういう環境を用意しなければ、という感覚もありません。僕は、千葉県船橋市という超ベッドタウンで生まれ育って、小布施は、感覚的にはセーラさんと同じで、もう外国ですよ。僕らは、そういう世代です。」

金石「単純に、茅刈りをして干した風景が好きだったり、だるま窯に火入れして、炎の音をまた聞きたいとか、そんなごく個人的かつ、自己中心的な願望で、メシが食えたらいいな、とは思いますが、そのためにどうしたらいいかと考えても、そんなムシのいい話は世の中にありませんから…。ただ、茅場は好きで、刈り取りの時期が製造部の最盛期なので諦めていますが、個人的な楽しみとして、春に草刈りをやるとかは、細々と続けています」

西山「僕は、他に行く理由がないので、このまま小布施で働き、暮らすでしょうね。」

小布施堂とは?

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西山「ウチの会社は、大雑把にいうと、社長と社長以外の社員という2つの区別しかない組織なんですよ。僕らは、ある時、便宜上、製造部長とか仕入部長とかの肩書きが付きましたが、社長以外の社員は超フラットな組織で、他の会社のことは知らないですが、組織で何かをやるということをよくわかっていないような気がします。」

金石「今は、日々、忙殺されている感はありますね。心の中のどこかには何か違うというのはありますが、人材不足というか、僕が今やっている仕事を誰か他の人ができるようにしないと、他の仕事ができないのも現実です。今、そういう状況に置かれているのも、社長からは、僕という人材を試されているような気もしています。」

小布施の魅力とは?

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金石「でも、ここ(小布施)に居るといいことがあって、えっ?こんな人に会えるのっていう、いろんな人に会えるんですよ。山田さんが平野さんを連れて来られたというのもそうですよね。いろいろな人に会えるというのはその人が持っている情報に接することができるということなんですよ。」

「いろいろな人が集まってくる仕組みをつくった市村社長や市村町長の世代の人たちの発想力と行動力はスゴいと思っています。その仕組みというのが、1980年からの『小布施町町並み修景事業』だったのですが、それがベースにあって、1995年に、セーラさんが小布施に来て、『小布施ッション』や『小布施見にマラソン』を立ち上げて、更に、人が集まるようになりました。僕らが小布施に来たのもそれがきっかけですから、こんな小さな町なのに、そこらの地方都市が束になっても敵わない魅力がある町なんです。」

『まちとしょテラソ』とは?

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西山「2009年にオープンした小布施町立の図書館です。前職がTV局のプロデューサーだった初代館長が図書館に関する法律を調べて、図書館のサービスが本に限定されるものではないことに気づき、本ではない情報という観点から、外部講師を招いた講演会や職員が講師を務める『テラソ美術部』、アーティストを招聘した『美場テラソ』をはじめ、小布施に住む人たちのインタビューを収めたアーカイブスとか、古地図やイラストマップを現在の地図に重ね合わせた街歩きサポートアプリなんかを導入しました。」

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「それから、町内ミュージアム所蔵作品のデジタル化等を通じて、地域や他機関との連携をしたりと、そのサービスも画期的なら、飲食したり、おしゃべりしたり、はしゃいで遊んだり、もちろん、本を読んだり、勉強したり、それぞれが思い思いに過ごせる『たまり場』のような、地域コミュニティを兼ねた図書館になって、多くの人が視察や見学にも訪れ、小布施の新しい時代がここから始まりそうな期待が膨らみました。小布施は、15年ぐらいの周期で新しい時代が来てるな、って思いましたが、前館長の任期満了で、本を借りて、静かに本を読む、ごく普通の図書館になってしまったのは、残念なことです。」

小布施の次の新しい時代

金石「でも、セーラさんがいなくなった後も、『まちとしょテラソ』が普通の図書館になった後も、既に、僕らと同世代の小林英樹さんや林英寿さんたちが、全く別の活動で町を盛り上げていて、小布施は、もう次の新しい時代が始まっているような気がします。」

COREZO(コレゾ)賞表彰式を引き受けたワケ

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金石「おもしいと思ったからですよ。小布施に来て、働けて、いろいろなことを出来たのも、嗅覚が働いて、運があったからだと思いますが、僕には、嗅覚だけは働くゾ、という、なんとなくの自信があります。COREZO(コレゾ)賞のこともその嗅覚が働いたのかも知れません、ハハハハ。」

ー 大ハズレかもしれませんよ

西山「僕も、単純におもしろそうだと思ったからで、実際に、表彰式に参加して、あの受賞者の人たちが小布施に来てくれたらおもしろいだろうと思います。」

小布施におもしろい人が集まる仕組みをつくりたい

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金石「この町に何かをしようという使命感はない、と言いましたが、僕がこの小布施に来たのは、おもしろい人がたくさんいるからです。おもしろい人がいるから、おもしろい人が集まってくる訳で、僕らがおもしろいかどうかわかりませんが、おもしろいことをやらないとおもしろい人にはなれないし、ウチの社長やセーラさんの時代とは違った小布施におもしろい人が集まる仕組みをつくりたいですね。そうしないと僕たちがおもしろくないですからね。」

株式会社修景事業ブログを覗くと、実におもしろそうで、貴重な経験、体験を数多くしておられる、というより、一般の建築会社ではまずさせてもらえないことをさせてもらっていたと言った方が正しいだろうか。西山さんがおっしゃるように、それは確実に、お二人の経験と情報として残っていて、その話を聞いているだけでも、このお二人は、小布施の「おもしろい人」なのである。この先、このお二人が何か事を成す時には、数多くのやりっ放しでやり残したことがきっと活きてくるのだろう。

また、お二人のボスである市村社長は、

「『小布施ッション』は、12年144回続けて、それなりの役目は果たしたと思うんですね。もう、その流れは止まらないように思います。これからの小布施を担う30代の人たちに伝えていきたいのは、観光客を増やすとかという発想をしないで、如何におもしろい人が集まってくるかに尽きるぞ、それが勉強だぞ、ということ、異分野の人が訪ねてくると、楽しいし、勉強にもなるし、次の力にもなるという、そういうサイクルを知って欲しいということですね。『小布施ッション』というのは、そういう手段の一つだった訳ですから。」

「今や、ネットで何でも情報が手に入る時代なんて言ってますけどね、本当の情報は人が持っているんですよ。まず、いい情報を持った人を『集める』ためには、コンベンションが一番手っ取り早いんですね。もちろん、いい情報に敏感ないいホストが必要ですけどね。一旦、いい情報を持った人『集まる』ようになると、情報が一人歩きを始めて、今度は、いい情報を求めて、人が『集まる』ようになります。いい方に廻り始まる訳です。更に、いい情報を求めて、色々な人が集まってくるんですね。実は、観光っていうのも情報なんですよ。」

「時間が無い、暇がないから発想できないって云うけど、時間があるから、いい発想ができるかというと、そんな訳がない。いい発想をするには、別の組み立てが必要で、そういう意味でも、コンベンションを誘致すれば、送り迎えする中で、学会の先生方の慧眼に直接触れることで、発想力も鍛えられるんですよ。」

「人材というのは、ある面では、その地位に就かないと、才能が開かないという部分もあるかもしれないですし、立場が人をつくることもあると思います。潜在能力がある人間がいても、普通、それは外から見えないでしょう?だから、どんな役目でも、役割でも、率先して引き受けた方がいい。そこで出会った人から得るものは大きいですよ。40代になると、いい意味でも、悪い意味でも保守的になるんで、30代の人たちががんばらなければいけない。」

とおっしゃっているが、確実に、このお二人には、市村社長の思いは通じているようだ。こらから、どんなおもしろい人が集まる仕組みをつくられるのか、期待したい。

COREZOコレゾ 「おもしろい人が集まる仕組みをつくろうとして、いつの間にか小布施のおもしろい人になっていた、よそ者、バカ者、若者だった」である。

後日談1.第3回2014年度COREZO(コレゾ)賞表彰式

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製造部長の金石さんは菓子職人としての仕事がピークで主に西山さんが事務局を担って下さった

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金石さんには翌日の小布施まちづくりフォーラムのパネリストをして頂いた

COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿;2014.08.31.

最終取材;2014.12.

最終更新;2015.03.19.

文責;平野 龍平

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