アーユルヴェーダ とは、食事や香り、季節との関わりを通して、心身の調和と健康を整えるインドの伝統的な生命哲学で、それを基にした料理とは、旬の食材やスパイスを用い、身体や心の状態、季節との調和を整えることを目的としたインドの伝統的な食養生料理を指す。
「発酵とスパイス」をテーマに、料理教室やオンライン講座、「食卓と世界をつなぐスパイス新聞」の発行、地域食材とのコラボレーション、若手育成など、多面的な活動を展開。食文化を通じた日本と世界との新たなつながりづくりに取り組んでいる。
プロローグ
メタ・バラッツ(Bharat Metha)さんは、アナン株式会社3代目。
鎌倉・極楽寺。江ノ電の駅から少し歩いた先に現れる、古民家のような建物で、外観からは、スパイス商を営んでいるとは全く想像できない。
取材当日、料理講習会が開催されていて、受講生の皆さんがたくさん集まっておられた。また、お父様のアナン・メタさんのご命日で、弔問の方も次から次に訪れてこられて、そこに漂っていたのは、“スパイスの香り”だけではなく、人と人、文化と文化が自然に交わる空気だった。
バラッツさんは、幼い頃からそんな環境の中で育った。
味噌汁、焼き魚、焼きそば…。日本の家庭料理が並ぶ食卓に、当たり前のようにインドのスパイス料理が一品混ざる。
「他の家とは、ちょっと香りが違った」と、バラッツさん。
幼少期から、和食の食卓にスパイス料理が並ぶ環境で育ち、「日本」と「インド」、二つの食文化が共存する暮らしの中でその感性を育んだのだろう。
最初から「家業を継ぐ」と決めていたわけではなかった。しかし学生時代から、父に連れられ、全国の百貨店を回り、自然と仕事を手伝うようになっていった。
「『大阪に行く』と聞いてワクワクしていたら、連れて行かれるのは観光地ではなく百貨店だった。」そんな思い出を、笑いながら振り返る。
こうして、学生時代から自然と家業を手伝うようになり、やがて、頻繁にインドへ渡るようになる。広大なインドでは、北、南、東、西と、地域によって食文化も、使うスパイスも、思想も全く違う。現地で食べ、学び、人と出会いながら、地域ごとに異なる食文化やスパイスの使い方、その背景にある歴史や文化、思想を吸収していった。
今回、こめみそしょうゆアカデミーの堀田 雅湖(ほった まさこ)さんと日東醸造株式会社の蜷川 洋一(にながわ よういち)さんのご紹介でお話を伺うことができた。
アナン株式会社

アナン株式会社の歴史
インドから日本へ、そして鎌倉へ
アナン株式会社のルーツは、1958年にまで遡る。バラッツさんの祖父は、日本の海洋資源・漁業に興味を抱き、インドから来日した。その後、父・アナン・メタ氏の代になって、スパイス事業を本格的にスタート。東京で始まったその事業は、約50年にわたり、日本にスパイス文化を届け続けてきた。
特徴的なのは、「そのまま売る」のではなく、“家庭でも使いやすい形”に加工・提案してきたこと。日本の暮らしの中に、どうスパイスを自然に溶け込ませるか。そこに、創業当初から一貫した考え方があった。
現在の拠点である鎌倉・極楽寺へ移ったのは約20〜25年前。古都・鎌倉の空気の中で、スパイスと発酵食を含めた日本食文化が自然に混ざり合う場所となっている。
40年続くヒット商品「カレーブック」

「スパイス」と「作り方」を届ける
アナン株式会社を代表する商品の一つが、「カレーブック」である。40年以上販売され続けているロングセラー商品だ。
特徴的なのは、完成品ではないこと。
中に入っているのは、スパイス、カレーフレーク、そして作り方だけなので、家庭にある野菜や水を使い、自分で料理を完成させる。
1980年代、日本にスパイス文化がまだ根付いていなかった時代に、カレールーではなく、「家庭でスパイスから料理を作る楽しさ」を伝えようとした試みは、極めて先進的だったと言えるだろう。
バラッツさんの活動
「スパイスは名脇役」
「スパイスそのものを食べる人は、あまりいません。何かと組み合わさって、初めて魅力が出るんです」、だからこそ、スパイスは“主役”ではなく、主役を引き立て、料理全体を深くする。“名脇役”なのだ、とバラッツさんは云う。
ヴィーガンスパイスラーメン
今、インドでは、これまで一部の人しか知らなかった発酵食品を含めた、日本の食文化そのものへの関心が急速に高まり始めているそうだ。
西インドでの食のイベントで、昆布出汁をベースに、スパイスオイルで仕上げたヴィーガンスパイスラーメンを提供したところ、現地の人々は、普段、ラーメンを食べる習慣がないのに、驚くほど反応し、ラーメンのスープは空になった。一方で、味噌汁は半分残った。
「インドの人たちは、“最初の香り”と“一口目のパンチ”をすごく大事にしている」ので、スパイスの“最初の香りと刺激”が最初にあり、そして、発酵の“じわじわ広がるうま味”。この組み合わせなら、インドの人々にも、より自然に伝えられる可能性を感じたという。
どんなラーメンなのか、食べてみたいと思うのは筆者だけではないだろう。
味噌、醤油、昆布…他、日本の発酵食品を含めた日本食文化を西インドに根付く、豆と野菜だけで豊かな美味しさをつくり上げてきたベジタリアン文化と結びつけることで、新しい食文化を生み出せるのではないか。そんな挑戦を、今まさに始めようとしている。
日本食とのコラボレーション
その考えは、日本食とのコラボレーションにも色濃く表れている。醤油や味噌、白たまりのような日本の発酵文化とも、自然に寄り添う。
実際、近年は全国の生産者や料理人とのコラボレーションも広がり、醤油や味噌、しろたまりのような日本の発酵文化とも、自然に寄り添う。
しろたまりとフェンネルやコリアンダー。
濃口醤油とローストスパイス。
昆布出汁とスパイスオイル。
マグロとスパイス。
ジビエとスパイス。
一見、遠く見えるもの同士が、スパイスの香りや風味を通して結び直され、それぞれの個性を引き立てながら、新しい美味しさを生み出していく。
しろたまりのようにあまり自己主張しない発酵調味料には、フェンネルやコリアンダーのような爽やかなスパイスを加えると、香りの軽やかさが際立つ。一方、濃口醤油のように深みのある調味料には、ローストした重厚なスパイスを加えると、より奥行きのある味わいが生まれるという。
また、日本料理を「削ぎ落として素材を際立たせる文化」、スパイス文化を「香りを重ねていく文化」と捉え、その融合によって、新しい食の景色が生まれると考えている。
マグロにどんなスパイスが合い、どんな味になるのだろうと聞くだけでもワクワクする。
料理教室やオンライン講座
現在では、料理教室やオンライン講座も継続的に開催。
コロナ禍以降はオンライン化も進み、全国の家庭とつながりながら、スパイスの使い方や楽しさを伝え続けている。
「食卓と世界をつなぐスパイス新聞」
近年、バラッツさんが力を入れている取り組みの一つが、「食卓と世界をつなぐスパイス新聞」の発行である。
元々は、ネット注文されたスパイスを“ただ段ボールで届ける”だけでは「もったいない」と感じたことから始まった。
「せっかくなら、背景や使い方も届けたい」と、考え、レシピだけでなく、生産者、発酵文化、地域食材、スパイスの物語などを盛り込んだ新聞を制作。しかも、皆んな大好き、クロスワードまで付いている。そこには、“商品”ではなく、“文化”と共に楽しさまで届けようとする姿勢に溢れている。
食を通じた地域活動
「旬の野菜」をテーマにしたカフェ「移動チャイ屋」を立ち上げ、出張料理なども精力的に展開し、若手料理人やキッチンカー事業者の支援も行っている。
2011年の東日本大震災後には、宮城県女川町で炊き出し活動を行ったことをきっかけに、地域の雇用や観光資源創出を目指す「女川カレーProject」に仲間たちと共に取り組むなど、食を通じた地域活動にも深く関わってきた。
また、長崎県・対馬では、獣害対策として捕獲されたイノシシや鹿を、美味しく地域資源として活かすため、それぞれに合うスパイスを開発。ジビエの食文化を普及し、食を通じて地域課題と向き合う取り組みにも関わっている。
さらに現在は、日本でインディカ米を栽培するプロジェクトも進行中で、葉山で土づくりから始め、実際に栽培準備が開始されていると云う。
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