溝口 薫平(みぞぐち くんぺい)さん/由布院玉の湯

COREZOコレゾ「由布院観光の真髄は人脈観光、まちづくりの先達」賞

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溝口 薫平(みぞぐち くんぺい)さん

プロフィール

大分県日田市出身、由布市在住

大分県由布市由布院温泉

由布院玉の湯

株式会社玉の湯代表取締役会長

ジャンル

観光・地域振興

まちづくり

経歴・実績

1933年 大分県九重町生まれ

1952年 大分県立日田高等学校卒業

1960年 日田市立博物館勤務

1966年 合資会社玉の湯 旅館経営に参加

1970年 近隣でゴルフ場建設計画が持ち上がると、「由布院の自然を守る会」を結成して反対運動を行い、ゴルフ場建設を阻止

1971年 亀の井別荘の中谷健太郎氏らとともに50日間にわたりヨーロッパ各地の観光地や温泉保養地を私費で視察して、まちづくりを学ぶ

1975年 大分県中部地震が発生。実際には被害が小さかった由布院温泉が風評被害を受け観光客が低迷すると、ゆふいん音楽祭、湯布院映画祭、牛喰い絶叫大会等のイベントを実施。地域にある文化や自然資源を育てることで、まちおこしを展開し、由布院の活性化に貢献。

1982年 株式会社玉の湯代表取締役社長に就任。湯布院町商工会長や由布院温泉観光協会会長、(財)人材育成ゆふいん財団理事長等を歴任。

1998年 第45回運輸省(現・国土交通省)交通文化賞を受賞。

2002年 第1回観光カリスマ(国土交通省)に選ばれる。

2003年 株式会社玉の湯代表取締役会長に就任。

2005年 春の叙勲にて旭日小授章受章

受賞者のご紹介

由布院は、観光地というより、鄙びた農村だった

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由布院は、観光業に携わる人々はもちろん、一般の観光客にも知らない人はいないくらい、全国的に有名な人気の観光地である。今では「すてきな町」、「洒落た町」というイメージが定着しているが、ほんの数十年前までは、温泉と田園風景があるだけで、観光地というより、鄙びた農村だったという。近隣の別府温泉の隆盛に隠れて、「奥別府由布院温泉」と呼ばれていて、故郷を尋ねられた時に「由布院だ。」と胸を張って言える由布院にしたい気持ちがいつもあったとそうだ。

1966年、由布院玉の湯の経営に携わるようになり、亀の井別荘の中谷健太郎さんらと出会う。1970年、別府から由布院に向かう途中にある猪の瀬戸という湿原にゴルフ場建設の話が持ち上がり、ゴルフ場の中を通るより、自然豊かな木々の中を通って由布院にお越し頂きたいと、観光協会の理事会の中に「由布院の自然を守る会」を立ち上げ、自然保護運動を始め、計画中止に追い込んだ。

当時、各地の観光地は大規模施設を造って、観光客を誘致しようという時代に、ゴルフ場の誘致こそすれ、その建設に反対するような観光地はなかった。

しかし、観光関係者がいくら「自然保護」と叫んでも、自然を守るより、生活道路等を整備して、便利な生活や経済的な豊かさの方が先という地元の農家の方々の要望とはかけ離れていくことになる。まちづくりのような運動は多くの方々の賛同を得ないと継続できないことに気付き、会の名称を「明日の由布院を考える会」に変え、 「由布院の自然を守れ」ではなく、自然保護の人たちも、生活の利便性を求める人たちも参加できる 「明日の由布院を考えていこう」という運動を始めると、自分達の子供や孫の時代に引き継げるより素晴らしい町にしようという共鳴の輪が広がっていった。

私費でヨーロッパ視察旅行へ

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その頃、日本全国のいろいろな観光地を視察してみても、どこも団体観光客で賑わっていた熱海や別府を目指していて、同じものを真似しても仕方がないと、大正13年に由布院で、「日本近代公園の父」と呼ばれた本多静六博士が講演をされた講義録の中の「自然ゆたかな公園の中に町があると言われるような由布院になれ」という提言を読んだことがきっかけになり、新しい可能性を求めて、1971年に亀の井別荘の中谷健太郎さん、夢想園の志手康二さんと共に、私費でヨーロッパ視察旅行に出掛ける。

各地の温泉保養地を巡り、特に、ドイツのバーデン・ヴァイラーの遊歩公園(クアガーデン)の美しさに魅了されたという。ホストをしてくれた、その環境を法定闘争の末、守り抜いた中心人物から、「町にとって最も大切なものは、緑と、空間と、そして静けさで、私たちはこの三つを大切に守ってきた。このバーデン・ヴァイラーのまちづくりには、100 年の年月がかかっている。町のあるべき姿をみんなで考え、その想いを大切にして、みんなで頑張ってきた。君たちも君たちのまちづくりを始めたようだが、君は町にとって何ができるかを考え、どれだけの努力をしているのか?」、「君は?」、「君は?」と、一人ずつ指さして問い質されたが、三人は何も答えられなかったという。

まちづくりが動き出した

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まちづくりには、企画力のある人、調整力のある人、伝導力のある人が必要なことをその方から教わり、帰国後、中谷さんから次々に出て来るアイデアを、人脈の広い溝口さんが行政他との調整を行ない、人望のある志手さんが仲間に伝えて実行するという役割を分担して、まちづくりが動き出した。

オイルショック後の1974年頃から「量」から「質」へと確実に価値観に変わり、他の観光地が従来型の「団体、男性、歓楽街」でしのぎを削っている間に、別府を反面教師にして、「小グループ、女性、保養地」に狙いを定め、女性が求めるものを女性目線で考え、努力して来たことが効を奏し始めるのである。

1995年に起こった大分県中部地震で風評被害に遭ったが、合宿場所が無くなった九州交響楽団に合宿場所を提供したのがきっかけとなって、「ゆふいん音楽祭」が始まり、映画好きの若者たちの「映画館のない町で映画を見よう」という発案で、「湯布院映画祭」が始まり、その他、「牛喰い絶叫大会」等、今も続くイベントを次々に開催し、書いてもらい易く情報を提供することで、マスコミも味方に付け、無料の広報をしてもらった。

イベントの運営はみんなの手弁当で、人脈が全てだった。お金がなかったからこそ、いろいろなアイデアも生まれたという。行政や企業からの資金援助をアテにしていたら、金の切れ目は縁の切れ目で、何十年も続かなかっただろう。
由布院というブランドが確立されてくると、滞在型の旅行形態を推進するには、地域の施設の料理を一定のレベルにすることが重要なので、「ゆふいん料理研究会」を立ち上げ、レシピをお互いに公開しあい、それにプラスして、各自の創意工夫でオリジナルを作る研究を皆が始めた。さらに、定期的な勉強会で切磋琢磨するようになり、料理人の意識も変わっていった。

君たちは約束を守った

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そして、7年後、溝口さんは、中谷さん他、約20人の仲間と一緒にドイツのバーデン・ヴァイラーを再訪し、病床の恩人に由布院の現状を報告すると、二人の手を握りしめ、「君たちは約束を守った。君たちは長い道を歩き始めた。世界中どこの町でも、何人かの人が、あるいは何十人、何百人かの決して多くはない人たちが同じ道を歩いている。ひとりでも多くの人が、よその町を見ることが大切だ。そして、その町をつくり、営んでいる『まじめな魂』に出会うことが必要だ」と語ったという。

由布院玉の湯は、亀の井別荘と並ぶ、由布院、大分県、九州だけでなく、日本を代表する名旅館のひとつである。  観光客でごった返す湯の坪街道を折れて、橋を渡ると、左手に由布岳を望み、雑木林に囲まれた由布院玉の湯が現れる。玄関は打ち水がしてあり(以前、溝口さん自身が打ち水をしておられるのをお見かけしたこともある)、山田脩二さん作の敷き瓦が敷かれ、絶妙に彎曲した小径を進むと、森林の匂いがして、期待感が膨らむ。ここが元々、田んぼだったとは俄には信じられない自然が再現されている(里山も元々、人が作った雑木林である)。

溝口さんは若い頃から、山や自然がお好きで、山によく登り、山小屋で過ごしていたそうだ。禅寺の保養所として生まれた玉の湯の旅館経営に携わるようになって、町の真ん中に森を作って、花が咲き、鳥や虫たちが遊びに来る雑木林のある宿を目指したという。

友人の地質他の専門家たちの協力を仰ぎ、大変な費用を投入して、約3mも土を入れ替え、自然に自生している樹木を移植した。できるだけ自然に近い状態を保つため、従業員の庭師さんが5人がかりで、常時、手入れをしておられる。

離れの客室と木立の配置が絶妙で、客室にいる限り、他の宿泊客の気配はほとんど感じない。いくつかの源泉をお持ちで、湯量は豊富で、泉温は60℃以上ある。雑木に囲まれた客室の檜の湯舟で、掛け流しのくせのないまろやかな温泉に浸かるのは最高の贅沢。至福の時を過ごせる。

「玉の湯はウチの玉のようなお湯からきているのですよ。」とおっしゃるように、いつもつややかなお顔で、「溝口さん自身がまさしく玉の湯の証明」である。
溝口さんは、由布院にいらっしゃる限り、いつも仕立ての良いスーツにネクタイ姿で、お客様を出迎え、朝夕の食事時間には席を廻って談笑し、見送っておられる。お客様も由布院の顔になられて久しい、もはや著名人の薫平さんに丁寧に応対頂くと、また、会いに来たくなるというもの。

「人材育成ゆふいん財団」を設立

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薫平さんはまちづくりの原動力は、「人材」であるというお考えから、「人材育成ゆふいん財団」を設立し、理事長を務められるだけでなく、外部の「ツーリズム大学」や「観光カリスマ塾」の講師を積極的に引き受け、地域内外の人材育成に尽力されている。

「由布院観光の真髄は、『人脈観光』です。人づくりは短時間でできるものではなく、次の若い人たちにその人の得意な分野の仕事を任せ、正当に評価し、それを受け入れる風土作りが重要です。『明日の由布院を考える会』の組織は消滅しましたが、自分たちの想いを引き継いでくれる人たちが育って、その人たちと交流を深めようと外から人が絶えず来て下さる。由布院では毎晩、どこかで、内外の人たちの交流が続けられていることが、由布院の強みです。貴方も今夜、どこかで宴会でしょ?内の人たちだけでは独りよがりになりがちですが、外の人たちと交流し、いろいろな意見を聞いて、知恵を頂くことで、さらに地域が良くなっていくのです。」

「私たちがまちづくりを強く意識するようになったきっかけは、ヨーロッパ視察旅行です。ここの若い人たちだけでなく、自分の子供たちにもいろんなところに行って、いろんな人に会って、交流するよう勧めてきました。おかげさまで、和泉は私とは違う人脈を拡げています。」

2003年、代表取締役に就任された桑野和泉さんは、お父様の薫平さんの志も引き継いで、由布院温泉観光協会理事を始め、社団法人ツーリズムおおいた初代会長、観光庁各種委員他を歴任され、2012年には、大分銀行の社外取締役就任が決まり、社業だけでなく、地域や観光業界の発展にも貢献されている。

玉の湯の雰囲気も、初めて訪れた頃と比べると、伝統を守りながらも、客室のアメニティーをはじめ、和泉さんの現代的なセンスが反映されているように思う。

「全国、いろいろなところを回っていると、『自分達も由布院と同じ事を考えていた』と言われることが少なくありません。それでは、みなさんが考えたことを、実際にやりだしたかというと、やっていない。考えて、踏み出したかどうか、それも、ひとりで踏み出したか、みんなで踏み出したかどうかで、随分、地域の活力の差が出てくるのです。」

「『あの三人がいなければ町は静かでいい』と、行政の人たちから随分言われました。次から次へと問題提起していくので、行政の人達にとってはたまったものではなかったでしょう。地域全体のまちづくりは、ひとつにまとめようとしてもなかなかまとまらないのが普通です。町の中で、絶えず議論をしていくことで、人はお互いに心を開いてきますし、地域のコミュニティも築かれていく訳です。そういうことができたのは、由布院の文化度、民度が相当高かったからだと思います。」

由布院に閑古鳥が鳴いていた頃のことを片時も忘れたことはありません

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公私ともにお忙しいのに、いつも時間が許す限りご対応下さり、帰り際には、必ず、車のところまで送って下さって、深々とお辞儀をして見送って下さる。

「由布院に閑古鳥が鳴いていた頃のことを片時も忘れたことはありません。今では沢山の皆さんが訪れて下さるようになりましたが、外部の企業進出や景観問題、交通問題、広域観光連携等、新たな課題も増えていますので、まちづくりはずっと続いています。」と、溝口さん。

頭が下がる。また、お目に掛かれるよう、自分自身も襟を正して、努力しようと思う。

何十年も前から、溝口さんたちは信念を持ち、想いを共有する仲間の皆さんと一緒に、それぞれの得意な役割を分担して、やれることをずっとやり続けておられるからこそ、今の由布院がある。

コレゾ賞の趣旨をご説明して、受賞をお願いしたところ、

「もう、私たちではなくて、私たちの世代を支えてくれて、また、私たちの子供の世代に引き継いでくれているひとつ下の世代の人たちに差し上げて下さい。」と、このお言葉からも、「たすきがけの湯布院」の精神を感じたが、「失礼ながら、この由布院で、薫平さんや健太郎さんを差し置いて、受賞してくれる人は誰もいませんよ。」と申し上げると、

「では、次郎さん井尾さんたちも一緒に受賞するなら。」と了解して下さった。

 

COREZO(コレゾ)「由布院観光の真髄は人脈観光、まちづくりの先達」である。

(「虫庭の宿」−溝口薫平聞き書き を一部参考にした。)

 

後日談1.第1回2012年度COREZO(コレゾ)賞表彰式

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遠路、お越し下さり、スピーチをして頂きました。

後日談2.押しかけ表彰式

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2013年12月、COREZO(コレゾ)財団専務理事の山田脩二さんと由布院に訪れた際、押しかけ表彰式を挙行。

COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿;2012.11.02.

最終取材;2014.06.

編集更新2015.02.27.

文責;平野 龍平

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