中谷 次郎(なかや じろう)さん/由布院温泉亀の井別荘

COREZOコレゾ「由布院の観光まちづくりを陰で支えてきた、物静かなジェントルマン」賞

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中谷 次郎(なかや じろう)さん

プロフィール

大分県由布市出身、在住

株式会社亀の井別荘 元会長

ジャンル

観光・地域振興

地域活性化

まちづくり

旅館経営

経歴・実績

1942年 由布院市湯布院町 生まれ

1963年 株式会社亀の井別荘 会社組織に

1964年 京都の料亭に料理人修行(2年間)

1966年 亀の井別荘に戻り、主に経理担当

1980年 取締役財務部長

2003年 専務取締役

由布院旅館組合 会計理事、副会長、会長

由布院観光協会 会計理事

湯布院町商工会 会計理事 等を歴任

受賞者のご紹介

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中谷 次郎(なかや じろう)さんは、由布院温泉の名旅館、亀の井別荘の専務取締役で、中谷 健太郎(なかや けんたろう)さんの弟さんである。2005年、ある国の観光地域振興事業にご協力頂いて以来、懇意にして頂いている。

由布院に伺うといつも、同級生の井尾さんと一緒にお付き合い下さる。次郎さんはもの静かで、いつも楽しそうに聞き役に徹しておられる。元気で賑やかな井尾さんとは好対照の名コンビだ。
2012年にも、由布院で、ある楽しい会合があり、久しぶりに、亀の井別荘の「湯の岳庵」から始まって、何軒もハシゴをして、夜が更けるまでドンチャン騒ぎをしたが、最後までニコニコとお付き合い下さった。

1962年、お父様が亡くなられて、東京で勤めていた兄の健太郎さんが帰郷された。健太郎さんは勤め先の映画撮影所を一年間休職し、亀の井別荘の善後処理が済んだら、東京に戻るつもりだったが、事は簡単には運ばず、いろいろやっているうちに、戻るに戻れなくなってしまったそうだ。

次郎さんは、兄から「一緒にやろう。」と声を掛けられた。次郎さんはサラリーマンに憧れていて、サラリーマンになりたかったそうだが、そんなことを言ってる場合ではなかったという。

料理人の修行に京都へ

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調理や接客、風呂掃除となんでもやった。1964年から京都に料理人の修行にも出た。修行中の料亭に、兄や溝口薫平さんたちが料理研究と称してやって来られたそうだ。

「兄が書いた本に、次郎は氷割るのが上手い、って書いていたでしょ?まあ、2年しか修行しなかった訳ですから、皿洗いや鍋洗い、その他の片付けや掃除、それこそ氷割り等の下働きしかさせてもらえませんよ。毎日、やっていれば氷割りも上手くなりますし、辛抱強くもなりましたね。それに下働きの人の気持ちもわかるようになりました。」

「由布院に戻ってからは、しばらく調理場の手伝いをしていましたが、経理をする人がいなかったので私がするようになりました。それからはずっと、経理、財務をやっています。表の仕事は兄で、裏方は私というような役割分担ですね。」と、次郎さん。

今では、由布院温泉は、数多くの観光地の人気調査では常に上位に選ばれて、知らぬ人がいない程、全国的に有名な人気観光地である。特に女性客からの支持が高く、今では「すてきな町」、「洒落た町」というイメージが定着しているが、ほんの数十年前までは、温泉と田園風景があるだけで、観光地というより、鄙びた農村だったという。近隣の別府温泉の隆盛に隠れて、「奥別府由布院温泉」と呼ばれていて、由布院には閑古鳥が鳴いていたそうだ。

「由布院」と「湯布院」、どちらが正しい?

「由布院」と「湯布院」の漢字表記についてだが、2005年(平成17年)に決定された挾間、庄内両町との合併により、大分郡湯布院町は由布市湯布院町になった。市町村合併以前の「湯布院町」は1955年(昭和30年)、昭和の大合併で、大分郡旧由布院町と旧湯平村とが合併した際に出来た町名。それ以降、旅行会社のパンフレット、観光ガイド等で、「湯布院温泉」と紹介されることが多くなったが、湯布院町には、「由布院温泉」、「湯平温泉」、「塚原温泉」という個別の3温泉しか存在せず、旧由布院町で生まれ育った皆さんの多くは、こだわりと誇りを持って旧由布院町の地域を「由布院」と呼んでおられるようだ。

由布院の「まちづくり」始動

1960年代、亀の井別荘の中谷健太郎さんが由布院に戻って来られ、玉の湯の溝口薫平さん、夢想園の志手康二さんの3人が中心となって「まちづくり」の活動が始まった。

1971年、その3人は私費で欧州視察研修旅行に出掛けた。各地の温泉保養地を巡り、特に、ドイツのバーデン・ヴァイラーの遊歩公園(クア・ガーデン)の美しさに魅了された。その時、その環境を法定闘争の末、守り抜いた中心人物がホストをして下さり、その方から、まちづくりに対する信念を問われ、まちづくりには、企画力のある人、調整力のある人、伝導力のある人が必要なことを教わって、大きな刺激と影響を受けたという。

帰国後、「歓楽街に頼るのではなく、人間が、人間らしく生きることのできる、静かで、豊かな温泉保養地を造ろう」と、中谷さんから次々に出て来るアイデアを、人脈の広い溝口さんが行政他との調整を行ない、地元で人望の厚い志手さんが仲間に伝えて実行するという役割を分担して、まちづくりが本格的に動き出した。

1975年、大分県中部地震が発生

ところが、1975年、大分県中部地震が発生。実際には被害が小さかった由布院温泉は風評被害を受け、観光客が低迷した。「由布院は健在だ。」と、全国にアピールするために、辻馬車の運行を決め、馬を調達してすぐに開始した。その辻馬車は由布院の田園風景と調和して、大評判を呼んだそうだ。

そして、合宿場所が無くなった九州交響楽団に合宿場所を提供したのがきっかけとなって、「ゆふいん音楽祭」が始まり、映画好きの若者たちからの「映画館のない町で映画を見よう」という発案で、「湯布院映画祭」が始まり、その他、「牛喰い絶叫大会」等、今も続くイベントを次々に開催し、地域にある文化や自然資源を育てることで、まちおこしを展開していった。

「イベントの運営はみんなの手弁当で、人脈が全てでした。お金がなかったからこそ、いろいろなアイデアも生まれたのでしょう。行政や企業からの資金援助をアテにしていたら、金の切れ目は縁の切れ目で、何十年も続かなかったと思います。」

由布院の「まちづくり」、若手の担い手だった…

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「そんな時、私たちの考えに賛同して、さまざまなイベントの企画、実施、運営等に協力してくれた私たちよりひと世代若い人たちが、健太郎さんの弟の次郎さんや井尾百貨店のタカちゃんたちでした。由布院のまちづくりを私たちの子供たちの世代に引き継いでくれています。」と、溝口薫平さん。

「兄は私の意見もよく聞いて、取り入れてくれましたが、由布院も亀の井別荘もどんどん前に突き進んでいた昭和50年(1975年)代は、経理の仕事と銀行との折衝で大忙しでしたね。」

「私が子供の頃はこの亀の井別荘も母屋と離れが5部屋でしたが、1995年に本館を建て替え、全21室の現在の形になりました。その窓の外にみえる2本の杉は、今では大木になっていますが、小さな頃からありまして、この木立のある情景は昔のままです。」と、次郎さん。

二科展の常連

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同級生の井尾孝則さんの話によると、次郎さんは、二科会写真部の会員であり、二科展の常連だそうだ。ご存知のように、二科会は新しい美術の確立を標榜して、文部省展覧会から分離して、在野の美術団体として「二科会」を結成し、二科美術展覧会を開催。常に新傾向の作家を吸収し、多くの著名な芸術家を輩出し続けてきた。大分県立芸術会館にも所蔵作品がある。

いつも次郎さんから頂く絵はがきは次郎さんの作品だ。ヤブコウジ、ドウダンツツジ、アケビ、カラスビシャク、・・・、等々、由布院の野山の草木たちが、モノクロで表現されている。バックが白で、デザイン画のように見えるその作品は独特の世界で、野山の草木の清楚な雰囲気が伝わってくる。

由布院で生まれ育った私たちにとって…

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「今では、由布院は多くの観光客の皆さんに訪れて頂ける観光地になって有難いことですが、この由布院で生まれ育った私たちにとっては、今の湯の坪街道の喧噪は、不思議で、理解できません。1998年か、99年頃に公民館の跡地に菓子屋ができたのがきっかけだったと記憶していますが、それから、どんどん、地域外からの出店が相次ぎ、今のようになっていきました。」

「この町の景観を守ろうと、兄たちと働きかけて、『潤いのあるまちづくり条例』が制定され、高層のホテルやリゾートマンション、大規模開発や店舗の看板、店舗で流す音楽等にも規制がかかりました。由布院の美しい自然環境、魅力ある景観、良好な生活環境は住民のかけがえのない資産であり、保全、改善する方向に変わりました。」

「開発は進みましたが、由布院には鄙びた雰囲気がまだ残っています。特に、団体観光客がほとんど入って来られないこの亀の井別荘の裏手の方の雰囲気は大好きです。由布院は観光地ですが、店舗や宿泊施設はもう飽和状態なのでこれ以上は増やさないようにして、昔からのよさを残していって欲しいですね。」

「由布院で生まれ、亀の井別荘と共に暮らしてきましたが、この木立の中にある情景が一番好きです。もうすぐ兄の跡を兄の長男が継ぐことになると思いますが、これまで積上げてきた亀の井別荘ならではの良さをこれからもずっと引き継いでいって欲しいですね。」

「今日は夜のお付き合いができず申し訳ありません。実は、今年、1ヵ月間入院をしました。それまで病気ひとつしたことがなく、年中無休でやってきましたが、無理のできない年齢になったのでしょうね。これからはできるだけ休みを取ります。」と、次郎さん。

コレゾ賞の趣旨をご説明し、受賞のお願いをしたところ、

「(溝口)薫平さんや兄、井尾さんたちと一緒に受賞させて頂けるなんて有難いことです。授賞式でたくさん飲めるようにしっかり体調を整えておきます。」と、ご承諾頂いた。
COREZO(コレゾ)「由布院の観光まちづくりを陰で支える、物静かなジェントルマン」だ。

 

中谷 次郎(なかや じろう)さんに関するお問い合わせは、

メールで、info@corezo.org まで

※本サイトに掲載している以外の受賞者の連絡先、住所他、個人情報や個人的なお問い合わせには、返答致しません。

 

COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿;2012.11.02.

最終取材2014.10.

編集更新2015.03.01.

文責;平野龍平

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