井尾 孝則(いお たかのり)さん/大分県由布院温泉

COREZOコレゾ「由布院の観光まちづくりを元気に支え、いつも周りも笑顔にするムードメーカー」賞

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井尾 孝則(いお たかのり)さん

プロフィール

大分県由布院出身

ジャンル

観光・地域振興

地域活性化・観光まちづくり

飲食業、立寄り湯

酒類・食品販売

経歴・実績

1943年 由布院生まれ

由布院にて井尾百貨店経営

由布院のまちづくりに尽力

2008年 「由布院 市の坐(正式には坐の右側の人が口の坐)」をオープン

大分法人会副会長

全国防衛庁商工会由布院支部長

由布院観光協会 監事

由布院商工会 監事

他を歴任

受賞者のご紹介

井尾百貨店

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井尾 孝則(いお たかのり)さんは大分県の由布院で明治時代に創業して、100年以上の歴史がある「井尾百貨店」と2008年にオープンした「由布院 市の坐」を経営しておられる。

2005年、国のある観光地域振興事業にご協力頂いて以来のお付き合いである。

「井尾百貨店」の店名は、その昔、呉服を扱っておられた頃の名残りだそうだ。お酒や食料品、雑貨を中心に取り扱う地域のコンビニの様なお店だ。井尾さん自身が吟味した、こだわりの日本酒、焼酎等の酒類や毎朝、6時には大分の中央市場に出向き、仕入れて来られる新鮮な野菜類他の食料品が並ぶ。

学生時代には、野球をしておられたとかで、長身でガッシリした体格、俳優のジェームス・コバーンを思い起こす風貌で、お酒が入ると、底抜けに楽しく、毎日粗塩で磨いておられる歯と笑顔がとってもチャーミングなオジサンだ。

初めてお会いした夜に、由布院の錚々たる皆さんと大いに盛り上がった後、「三次会はウチに来る?」と井尾百貨店の奥にある井尾さんの趣味部屋にお招き頂いた。

そこには、なんと作れる職人がいなくなって1983年に製造中止となった、マニア垂涎の伝説のスピーカーが鎮座ましましていた。それは曲木の技法を駆使した家具というか、大型楽器のような、まさに工芸品といった風格があり、出て来る音も素晴らしかった。アンプも特注品というこだわりのオーディオセットで、おすすめのジャズのCDを聴かせてもらい、更に意気投合した。

後から伺った話では、余程、親しくならないと自宅に招いて下さることはないそうで、実に光栄な話である。以来、懇意にして頂いていて、由布院に伺う度に、井尾さんの同級生で仲良しの亀の井別荘、中谷次郎さんたちと一緒に飲み会を開いて頂いている。

井尾さんは学校卒業後、社会人野球への誘いもあったようだが、家業を継ぐ決心をし、大分の食品問屋に就職した。その会社の鹿児島支店で4年間の修行の後、由布院に戻ってこられた。当時は、コンビニ等も存在していなかった時代で、たばこや塩の専売店や石炭の販売も一手に引き受けていて、店舗販売、配達と大忙しだったそうだ。

今では、由布院温泉は、数多くの観光地の人気調査では常に上位に選ばれて、知らない人がいない程、全国的に有名な人気観光地である。特に女性客からの支持が高く、今では「すてきな町」、「洒落た町」というイメージが定着しているが、ほんの数十年前までは、温泉と田園風景があるだけで、観光地というより、鄙びた農村だったという。近隣の別府温泉の隆盛に隠れて、「奥別府由布院温泉」と呼ばれていて、由布院には閑古鳥が鳴いていたそうだ。

「由布院」と「湯布院」、どっちが正しい?

「由布院」と「湯布院」の漢字表記についてだが、2005年(平成17年)に決定された挾間、庄内両町との合併により、大分郡湯布院町は由布市湯布院町になった。市町村合併以前の「湯布院町」は1955年(昭和30年)、昭和の大合併で、大分郡旧由布院町と旧湯平村とが合併した際に出来た町名。それ以降、旅行会社のパンフレット、観光ガイド等で、「湯布院温泉」と紹介されることが多くなったが、湯布院町には、「由布院温泉」、「湯平温泉」、「塚原温泉」という個別の3温泉しか存在せず、旧由布院町で生まれ育った皆さんの多くは、こだわりと誇りを持って「由布院」と表記しておられるそうだ。

由布院の「まちづくり」始動

1960年代、亀の井別荘の中谷健太郎さんが由布院に戻って来られ、玉の湯の溝口薫平さん、夢想園の志手康二さんの3人が中心となって「まちづくり」の活動が始まった。

1971年、その3人は私費で欧州視察研修旅行に出掛けた。各地の温泉保養地を巡り、特に、ドイツのバーデン・ヴァイラーの遊歩公園(クア・ガーデン)の美しさに魅了された。その時、その環境を法定闘争の末、守り抜いた中心人物がホストをして下さり、その方から、まちづくりに対する信念を問われ、まちづくりには、企画力のある人、調整力のある人、伝導力のある人が必要なことを教わって、大きな刺激と影響を受けたという。

帰国後、「歓楽街に頼るのではなく、人間が、人間らしく生きることのできる、静かで、豊かな温泉保養地を造ろう」と、中谷さんから次々に出て来るアイデアを、人脈の広い溝口さんが行政他との調整を行ない、地元で人望のある志手さんが仲間に伝えて実行するという役割を分担して、まちづくりが本格的に動き出した。

ところが、1975年、大分県中部地震が発生。実際には被害が小さかった由布院温泉は風評被害を受け、観光客が低迷した。「由布院は健在だ。」と、全国にアピールするために、辻馬車の運行を決め、馬を調達してすぐに開始した。その辻馬車は由布院の田園風景と調和して、大評判を呼んだそうだ。

牛喰い絶叫大会

そして、地震で合宿場所が無くなった九州交響楽団に合宿場所を提供したのがきっかけとなって、「ゆふいん音楽祭」が始まり、映画好きの若者たちからの「映画館のない町で映画を見よう」という発案で、「湯布院映画祭」が始まり、その他、「牛喰い絶叫大会」等、今も続くイベントを次々に開催し、書いてもらい易く情報を提供することで、マスコミも味方に付けて、無料の広報をしてもらい、多くの人々を集客することが出来た。地域にある文化や自然資源を育てることで、まちおこしを展開していった。

「イベントの運営はみんなの手弁当で、人脈が全てでした。お金がなかったからこそ、いろいろなアイデアも生まれたのでしょう。行政や企業からの資金援助をアテにしていたら、金の切れ目は縁の切れ目で、何十年も続かなかったと思います。」

「そんな時、私たちの考えに賛同して、さまざまなイベントの企画、実施、運営等に協力してくれた私たちよりひと世代若い人たちが、健太郎さんの弟の次郎さんや井尾百貨店のタカちゃんたちでした。由布院のまちづくりを私たちの子供たちの世代に引き継いでくれています。」と、溝口薫平さん。

牛食い絶叫大会は、1976年に第1回目を開催して、以降、毎年10月10日に由布岳の麓の牧草地で開催されるイベント。最初は、放牧地が売られ、開発されそうになる危機に直面し、牛一頭牧場運動で全国から牛のオーナーを募り、オーナーを招待して高原で、牛鍋パーティーをしたのがはじまりだそうだ。

地元で育てられた豊後牛に舌鼓を打った後、抽選で選ばれた人々が騒音測定器の前で、思い思いの言葉を絶叫して、入賞者はさまざまな賞品がもらえる。

「そうじゃのぅ、牛食い絶叫大会も第1回目から健太郎さんや薫平さんたちと一緒にやっちょる、やっちょる。牛の買い付けから、タレつくり、設営、撤収、マスコミ対応、・・・、何でもしちょったなぁ。肉の等級審査も毎年、次郎さんたちと行っちょった。いつもA5か6かのええ肉じゃった。そりゃ、大変じゃったが、それ以上に楽しかった。みんな、若かったしなぁ、ガハハハ。」

「それでも、まだ、あん頃は、歓楽街をつくって別府化したいモンもおって、町もひとつにはまとまっとらんじゃった。つるべ打ちしたイベントが次々に成功して、年々、観光客の皆さんが訪れてくれるようになって定着したから、ようやくまとまって、由布院ブランドを確立できたんじゃ。」と、井尾さん。

「湯の坪」から「田中市」にも人の流れを…

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由布院を訪れる観光客の流れは、店舗の多い「湯の坪」に向かいがちだ。そこで、井尾さんは、「井尾百貨店」のある「田中市」にも人の流れを作り、面の観光地にしたいと、2008年、百貨店店舗の通り向かいに、食事処「由布院 市の坐」を開店された。建物は由布院旅館御三家のひとつ、「無量塔」のオーナーのご紹介で、築100年という富山にあった豪壮な農家を移築したそうだ。調度やしつらえも井尾さんのこだわりが隅々まで行き届いていて、とても重厚で、落ち着いた雰囲気である。

「結豆腐(ゆいどうふ)」の「由布院 市の坐」

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店の看板は「 (ゆいどうふ)」で、毎日、早朝から長男さんと次男さんが、国産丸大豆と由布院の天然水で仕込んでおられる。ほんのりと甘く、大豆本来の味がして、昔、食べた豆腐を思い出す。いつも井尾さんのおまかせで頂くが、季節毎に開発しているという料理メニューは豊富で、由布院の旬の素材を活かす工夫がしてあり、どれも美味しく、つい食べ過ぎ、飲み過ぎてしまう。

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店の切り盛りは、日本茶のティールームで評判だった「桐屋」(惜しくも閉店された)を由布院美術館の敷地内で営業しておられた次男の淳さんがしておられる。

由布院にお越しになった訪問客に少しでも喜んで頂きたいと、敷地内の源泉を利用して、井尾百貨店のお隣で「花湯」という立ち寄り湯(1,000円で貸切)も運営されているが、市ノ坐のお客様も利用できるとのこと。

由布院をこよなく愛している井尾さんは、今日の隆盛に至る由布院のまちづくりに奔走してこられたひとりであり、地元の皆さんからも親しみを込めて「タカちゃん」と呼ばれている人気者である。亀の井別荘の中谷次郎さんとは同級生で、静と動の名コンビだ。井尾さんは、「結豆腐」というその名の通り、お客様との笑顔を結んで、由布院が益々、元気な地域になるよう日々、取り組んでおられる。

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人と人との付き合いに損得勘定なんてないちぃ

井尾さんたちに会って、市ノ坐で食事をする目的だけで、プライベートでも、何度も由布院に訪れているのだが、実は一度も仕事を一緒にしたことはないのである。

「人と人との付き合いに損得勘定なんてないちぃ。何かに利用しようと人と付き合ったことはないし、誰かを利用しようという人とも付き合わん。だからアナタも知っちょるような人たちと長い付き合いができるんじゃち、ガハハハ。」

「ウチも町のよろずやで長い間、商売をさせもらってきちょるけど、規制緩和やコンビニの進出、経済情勢の変化で、物販だけでは厳しい時代になっちょる。まぁ、そんなこともあって、ここに『市ノ坐』を開店した訳じゃけど・・・。由布院も10年前に比べると、2008年のリーマンショックや2011年の東日本大震災もあって、観光客数も減っていて、由布院も正念場を迎えていると思ちょる。これからも多くの人々に訪れてもらうためには、地域で生活している自分たちひとりひとりが外から来た人々に喜んでもらえるよう、常に新しい魅力を創る努力を続けんといかん、と肝に命じて、商売をさせてもらっちょるよ、ガハハハ。」と、井尾さん。

井尾さんは、いつも楽しいムードメーカーで、井尾さんのいない宴会なんて、◯◯◯なのである。間違いなく、由布院の名物人物のおひとりであろう。運良く、井尾百貨店や市ノ坐で会えたら、是非、話しを聞いてみて頂きたい。きっと由布院がもっと好きになる、もっと楽しくなるヒントを教えてもらえるだろう。

コレゾ賞の趣旨をご説明し、受賞のお願いをしたところ、

「ガハハハ、(溝口)薫平さんが推薦してくれちょるんじゃったら、断る訳にイカンじゃろ?」と、ご承諾頂いた。

COREZOコレゾ「由布院の観光まちづくりを元気に支え、いつも周りも笑顔にするムードメーカー」だ。

後日談、「市の坐」内に「桐屋」オープン

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2015年秋、「市の坐」内で「桐屋」を再開すると聞いて、往年(といっても数年)のファンとして、早速、見に行った。

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オープン直後であったために、カウンターのみ、7席ほどしかない席はすぐに満席になって、残念ながら、その日は時間がなく、次男の淳さんが淹れるお茶を飲むことは出来なかった。近々、再訪したいと思う。

※「市の坐」は、諸事情により閉店されたそうだ。

 

COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿;2012.11.02.

最終取材;2014.11.

編集更新;2015.03.01.

文責;平野龍平

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