米田 誠司(よねだ せいじ)さん/愛媛大学法文学部准教授

COREZOコレゾ「由布院観光まちづくりの現場経験から、さらに深く、学問として研究、指導する学者」賞

 

米田 誠司(よねだ せいじ)さん

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プロフィール

福岡県北九州市出身、愛媛県松山市、大分県由布市在住

愛媛大学法文学部人文社会学科 准教授

(観光まちづくりコース担当)

博士(公共政策学)

ジャンル

観光地域振興

地域活性化

経歴・実績

1963年 福岡県北九州市生まれ

その後おもに山口県下関市で育つ

1989年 早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了

1989年 東京都庁入庁

多摩ニュータウン開発、都営地下鉄建設等に携わる

1998年 東京都庁退職

1998年 全国公募93名の中から選ばれ、由布院観光総合事務所事務局長に着任

由布院温泉観光協会・旅館組合の組織活動の他、滞在型観光地づくり、

ゆふいん流グリーンツーリズムの研究、地域間連携、まちづくり活動等を推進

2010年 同事務局長を退任

2011年 熊本大学大学院社会文化科学研究科博士課程修了

2012年 愛媛大学法文学部総合政策学科講師に着任

観光庁地域観光イノベーション促進事業に係る第三者委員会委員

観光庁中核人材育成事業に係る検討委員会委員

NPO法人ハットウ・オンパク理事などを兼任

暮らすような旅や人を訪ねる旅、三世代旅行などを提唱し実践

受賞者のご紹介

元由布院観光総合事務所事務局長

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米田 誠司(よねだ せいじ)さんは、現在、愛媛大学講師。2005年、由布院観光総合事務所事務局長をしておられた頃に、ある国の観光地域振興事業にご協力を頂いて以来のお付き合いである。

米田さんは、愛媛大学に着任された後も、ご家族は由布院にお住まいで、2012年にも、由布院で、ある楽しい会合があり、阿蘇まで温泉に入りに行ったり、久しぶりに、「湯の岳庵」から始まって、何軒もハシゴをして、夜が更けるまでドンチャン騒ぎをした。

今では、由布院温泉は、数多くの観光地の人気調査では常に上位に選ばれて、知らない人がいない程、全国的に有名な人気観光地である。特に女性客からの支持が高く、今では「すてきな町」、「洒落た町」というイメージが定着しているが、ほんの数十年前までは、温泉と田園風景があるだけで、観光地というより、鄙びた農村だったという。近隣の別府温泉の隆盛に隠れて、「奥別府由布院温泉」と呼ばれていて、由布院には閑古鳥が鳴いていたそうだ。

「由布院」と「湯布院」の漢字表記についてだが、2005年(平成17年)に決定された挾間、庄内両町との合併により、大分郡湯布院町は由布市湯布院町になった。市町村合併以前の「湯布院町」は1955年(昭和30年)、昭和の大合併で、大分郡旧由布院町と旧湯平村とが合併した際に出来た町名。それ以降、旅行会社のパンフレット、観光ガイド等で、「湯布院温泉」と紹介されることが多くなったが、湯布院町には、「由布院温泉」、「湯平温泉」、「塚原温泉」という個別の3温泉しか存在せず、旧由布院町で生まれ育った皆さんの多くは、こだわりと誇りを持って旧由布院町の地域を「由布院」と呼んでおられるようだ。

1960年代、亀の井別荘の中谷健太郎さんが由布院に戻って来られ、玉の湯の溝口薫平さん、夢想園の志手康二さんの3人が中心となって「まちづくり」の活動が始まった。

1971年、その3人は私費で欧州視察研修旅行に出掛けた。各地の温泉保養地を巡り、特に、ドイツのバーデン・ヴァイラーの遊歩公園(クア・ガーデン)の美しさに魅了された。その時、その環境を法定闘争の末、守り抜いた中心人物がホストをして下さり、その方から、まちづくりに対する信念を問われ、まちづくりには、企画力のある人、調整力のある人、伝導力のある人が必要なことを教わって、大きな刺激と影響を受けたという。

帰国後、「歓楽街に頼るのではなく、人間が、人間らしく生きることのできる、静かで、豊かな温泉保養地を造ろう」と、中谷さんから次々に出て来るアイデアを、人脈の広い溝口さんが行政他との調整を行ない、地元で人望のある志手さんが仲間に伝えて実行するという役割を分担して、まちづくりが本格的に動き出した。

ところが、1975年、大分県中部地震が発生。実際には被害が小さかった由布院温泉は風評被害を受け、観光客が低迷した。「由布院は健在だ。」と、全国にアピールするために、辻馬車の運行を決め、馬を調達してすぐに開始した。その辻馬車は由布院の田園風景と調和して、大評判を呼んだそうだ。

そして、地震で合宿場所が無くなった九州交響楽団に合宿場所を提供したのがきっかけとなって、「ゆふいん音楽祭」が始まり、映画好きの若者たちからの「映画館のない町で映画を見よう」という発案で、「湯布院映画祭」が始まり、その他、「牛喰い絶叫大会」等、今も続くイベントを次々に開催し、地域にある文化や自然資源を育てることで、まちおこしを展開していった。

「書いてもらい易く情報を提供することで、マスコミも味方に付けて、無料の広報をしてもらったおかげで、多くの人々を集客することが出来た。」と、溝口薫平さんもおっしゃっているが、由布院はマスコミ戦略も巧みだった。

全国公募で、由布院観光総合事務所事務局長に選ばれた決め手とは?

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1989年、全国公募93名の中から選ばれ、由布院観光総合事務所事務局長に就任された。当時、観光協会の事務局長を全国から公募するのは珍しく、「あの由布院が」ということでマスコミを賑わせた。

当時、東京都庁に勤めており、ニュータウンの都市計画などに携わっていた。個人的にも町づくりに興味を持ち、同じ趣味の仲間と全国の小さな村を歩いて回る中で、由布院を訪れたこともあって、軽い気持ちで応募したという。

書類選考を通過し、由布院で面接が実施された。1日かけての面接が終了した後、地域の皆さんと深夜まで飲み、語り合っていた。

「ガハハハ、そうそう、あの時は、確か、米田さんも含めて、最終候補は3人じゃった。由布院は『人脈観光』じゃけん、宴会をやってね、お客さんと楽しくお酒を飲んで、盛り上がって、でも、飲んでも飲まれない、話すことはきちんと話せる、というのは大事じゃろ?だから、最後は宴会で決った、ガハハハ。」と、当時を知る、井尾百貨店の井尾孝則さんから何度も伺った。

確かに、由布院を訪れると夜は必ず宴会である。米田さんも由布院にいらっしゃる限り、参加して下さる。

「当時、由布院は、既に人気温泉地として全国に名を知られていたのに、事務局長職を公募しました。常に転換点、発展途上だという意識とそれを何とかしなければ……、という気持ちがすごく伝わってきましたし、自分たちだけで解決しようとするのではなくて、外部の力を活用しようという発想も当時は画期的でした。実際に会って、話をしてみて、こんなスゴイ人たちと一緒にやってみたいと思いました。」と、米田さん。

そして、一家で由布院に移住して来られ、事務局長として、個性豊かな由布院の皆さんの取りまとめ役、ホテル・旅館や観光協会と行政のつなぎ役、次々に出される課題の解決、提案の実現、多くの視察の受入れ等々をこなし、由布院の皆さんの期待に応えてこられた。ホスト役としてのホスピタリティ、気遣いは素晴らしく、由布院を訪れて、米田さんに接した人々はフアンになって、きっと何度も訪れているはずだ。

由布院流おもてなしとは?

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2012年の「ある楽しい会合」というのは、2005年の観光地域振興事業の同窓会のようなもので、その時の事業主体の担当者が、海外赴任から一時帰国して由布院を訪れたいというので、米田さんがひと肌脱いで下さった。

当時の懐かしい場所での宴会、2次会、3次会、新しい見ドコロ、・・・、等々、至れり尽くせりの2泊3日間で、あらためて由布院を満喫させて頂いた。事務局長を退職されても、由布院流のもてなしの心はそのままだった。

「由布院の皆さんと一緒に仕事をさせてもらって、“スゴイ”と感じたのは、常に観光客の立場、目線でまちづくりに取り組んでいること。さらに、お客様の方をだけを見るのではなく、1万人の住民が住むこのまちを、50年後、次の世代、その次の世代も住み続けることのできるようにしょうというのがまちづくりの一番の前提にあったことです。自分たちの暮らしをどう考え、どう良くし、そのうえでお客さんをどう迎えるか、それこそが観光地として本来考えるべきテーマで、由布院の皆さんはもう何10年も続けていました。」

「立場によって利害が相反するテーマなので、皆、意見は違います。どちらが正しいかといった理屈よりも、何度も議論を重ね、最善の答えよりも、納得できる答えを見つけることが大切です。その繰り返しの中で生まれるお互いの理解や信頼関係こそが、この狭いまちで一緒に暮らすための“根っこ”の部分を共有することに繋がります。そんな活動、作業を繰り返してきました。」と、米田さん。

由布院観光総合事務所事務局長から学者、研究者に

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2010年、熊本大学の博士課程の博士論文執筆に専念するため、由布院観光総合事務所事務局長を退任された。送別会には日本全国から160人以上の方々が集まったという。人望があり、あれだけ由布院の皆さんとの信頼関係を築いておられたのに、どうして学者の道に進まれたのか気になっていていた。

「ご存知のように、2005年に湯布院町は当時、大分郡であった周辺の3町と合併して由布市湯布院町になりました。当時、由布院温泉観光協会・旅館組合は、市町村合併を強行することに反対し、自立できるまちづくりを目指す、と宣言したのですが、政治的に敗れました。合併当時の人口は、挾間町が約15,000人、庄内町約10,000人、湯布院町は12,000人でした。合併後はどのようなことが起こったかはご想像頂けるでしょ?」

「当時、私は事務局長を勤めていましたし、湯布院町の住民でもありましたので、由布院温泉観光協会・旅館組合の皆さんがどのような経緯経過、どういう思いで、その宣言を出したのかはよく理解できますし、職務としても携わりました。それで、平成の市町村の大合併が、民間主導で進めてきた由布院のまちづくりにどのような影響を及ぼしたか、また、由布院が取り組んでいる滞在型観光をはじめとする内発的な産業で、持続可能な地域経営がどのようにできるのかについて、研究して、まとめてみたいと思うようになりました。」と、米田さん。

事務局長在職時に米田さんは、「2005年の市町村合併の時、由布院の人々には自分たちで議論する時間さえなかった。単に「賛成か、反対か」ということではなく、議論の“場”を持てなかったことが悔やまれる。」とおっしゃっていた。余程、無念だったのだろう。

平成の大合併ー湯布院町の合併問題

湯布院町の合併についての詳細をよく知らなかったので、少し調べてみた。

2002年(平成14年)、町の合併問題が持ち上がり始めた。最初は訳がわからず、関心もない人が多かったが、町が合併するのが前提のようなアンケートを取ったりしたことに怒り出した若者たちが行動を始めたそうだ。

当時、既に由布院は自立している地域として認知されていて、由布院温泉観光協会・旅館組合では、由布院を目指す全国の自治体等から、月に30以上の視察団を受入れていた。先ずは、地方自治や市町村の合併についてよく知ろうと、地方自治の専門家と呼ばれる方々を講師に招き、しっかり時間をかけて何度も勉強会を実施した。

勉強会、議論を重ねるうちに、由布院には経済力と地域力と自主財源があるのに、由布院の特性を考えず、行財政改革の努力もせず、国や県や三町が勧めるからと、市町村合併を強行することに危機感を持ち、商売だけでなく、町の将来がかかっていることがわかってきた。

2004年、由布院温泉観光協会・旅館組合は全会一致で、「市町村合併を強行することに反対し、自立できるまちづくりを目指す」と、宣言した。全国の自立を目指す自治体から応援メッセージもたくさん届いたという

そして、合併の是非を問う住民投票条例の住民請求を起こすが、町議会では賛否同数で、議長採決によって否決される。町長リコールにまで発展したが、リコールは成立せず、合併は阻止できなかった。

しかし、「観光協会がまちづくり団体として合併問題に関わったことの是非はともかく、政治的には負けてしまったが、思想的には何一つ負けていない。長年培ってきた由布院の自立したまちづくりの精神はしっかり表明した。」と、当時の由布院温泉観光協会は語られたそうだ。

持続可能な地域経営と地域自治とは?

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2011年、米田さんは、「持続可能な地域経営と地域自治に関する研究―由布院の観光まちづくりを事例として―」という題目の学位論文で、博士学位を取得された。

「論文は、序章で筆者の問題関心とこれまでの由布院論を整理し、まちづくり論と観光論とが十分な関連をもたないまま論じられている現状を提示している。第一章で由布院のこれまでの動きと地域特性 を分析するための枠組の整理と筆者の独自の概念である「動的コミュ二ティ」概念の説明がなされている。ここではまた「動的コミュ二ティ」と「アソシエーション」との違いなども検討されている。

続く第二章では、由布院の観光まちづくりが地域へどのように貢献してきたのかが検討されている。 由布院のまちづくりの歴史が概観され、それがどのような思想のもとに行われてきたか、またその思想の誕生や共有の過程が検証されている。さらに、観光業の地域への貢献ということで、実証的な統計調査も示されている(この作成には筆者自身が大きく関わっている)。

第三章は「緊張の中の『動的コミュ二ティ』と題され、由布院に潜在しているダイナミズムの具体的な表現としての活動団体が5つ取り上げられ、検証されている。第四章では地域経営と地域自治の関連が論じられている。以上のように、この論文は従来さまざまに論じられてきた由布院を一つのまとまった像として提示し、そのために、地域社会の中にあるダイナミズムを表現するための新たな概念の工夫など、筆者独自の概念構成が見られ、また統計データの作成や整理などにおいても高い評価を与えることのできる論文である。」(以上、「論文審査の結果の要旨」より抜粋、要約)

「論文要旨」を拝読しただけだが、由布院に対する米田さんの熱い思いが満ちあふれているように感じた。「論文審査の結果の要旨」では触れられていないが、第3章では、由布院のまちづくりは「非政治的」であったからこそ、幅広い支持を得たが、「平成の大合併」では、反対の立場を表明することで、「政治的」意味合いを持ち、かつて補完関係にあった観光関係者とそれ以外の2つの勢力の対立が決定的なものになった。

さらに「アメ」としてぶら下げられた合併特例措置にも言及し、国の財政難により合併特例債を限度額まで起債できなくなったことで、合併推進派の方が合併後の事態への失望感が大きく、例え、最大限に起債できたとしても、かえって財政が立ち行かなくなった事例も示しておられる。

本来、手を結ぶべきであった旧由布院町の2つの勢力が、「平成の大合併」に大きく翻弄され、対立することで、大きなしこりを残したが、由布院の観光まちづくりのリーダーである中谷健太郎氏が提唱するように、「対立的信頼関係」が重要であり、今後も対立や軋轢が生じた局面で、「対立的信頼関係」に基づいて議論し、対立軸を乗り越えていければ、「住民自治」に対して,ひとつの展望を開くことができるかもしれないと論じておられる。

また、第4章では、由布院の観光まちづくりでは、地域経済を活性化する「地域経営」と地域の課題を住民自らの責任において処理する「地域自治」は不可分な関係にあり、由布院のまちづくりは、住民のなかに、地域の課題を自ら解決するために立ち上がるポテンシャルがあり、折に触れて具体的な団体・集団となって顕在化するというダイナミズム(米田さんは「動的コミュニティ」と表現)を持ち続けていたことが特徴であり、地域を第一義に考え、観光とまちづくりを結びつけてきたことにその価値がある。しかし、「平成の大合併」は「地域経営」と「地域自治」の良好な循環を断ち切り、「動的コミュニティ」にも悪影響を及ぼしたのではないかとも論じておられる。

「平成の大合併」が地域につくった溝

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実際、由布院の方が、「あの人は合併賛成派だった人だから、オレたちとは口をきかんよ。」と、呟かれたのを聞いたことがある。「平成の大合併」が地域につくった溝はよっぽど深かったのだろう、10年近く経っても埋まらないようだ。

「それでも、いかに次に進めるかが大事。」と、米田さんはエールを送っておられる。

何れも由布院観光総合事務所事務局長の経験を通じて、内面からみた由布院の観光まちづくりを論じておられ、興味深く、大変おもしろい内容であり、勉強になった。今後の研究課題として、観光まちづくりのためのデータ整備と標準化、「動的コミュニティー」論のさらなる検証、新たな地域社会像、地域経営等を挙げておられる。

2012年から愛媛大学で教鞭をとっておられるが、米田さんの講義を聴ける学生さんが羨ましい。第二、第三の米田さんを全国に輩出して頂きたいと思う。

また、第2章でまちづくりの観光への効果の正負を秋吉祥志さんの熊本県小国町や蜷川洋一さんの仕込蔵のある愛知県豊田市足助町と湯布院町を比較しておられる。3地域とも国土交通省等が選定した「観光カリスマ」がいらっしゃるのだが、何かのご縁を感じる。

コレゾ賞の趣旨をご説明し、受賞のお願いをしたところ、

「私はまだまだです。これからの研究者としての成果を見てから候補にして下さい。」とおっしゃるので、

「由布院のまちづくりに外部から参加されて、その経験と実績を基に、観光まちづくりの手法をひも解き、他地域に応用できるように標準化にも取り組まれるのでしょ?これからの米田さんの活動、研究は、まちづくりに携わることのできる人材育成、由布院だけでなく、持続可能な地域づくりに繋がっていくのだろうと思います。何の名誉も、権威も、賞金もない賞ですし、ま、受賞して頂いても、何の得にも、役にも立ちませんので、遠慮して頂くには値しない賞ですよ。」と申し上げたところ、

「ハハハハ、そうですか。では、有難く頂いておきます。」と、ご承諾頂いた。

COREZOコレゾ「由布院観光まちづくりの現場経験から、さらに深く、学問として研究、指導する学者」である。

COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿:2012.11.02.

最終取材2014.06.

編集更新:2012.11.02.

文責;平野 龍平

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