近藤 美佐子(こんどう みさこ)さん・公人(きみひと)さん/藍工房「たった一本の幸せ」

COREZOコレゾ「『辛い』に一本横一足すだけで『幸せ』になる、そんな『たった一本の幸せ』を大切にして、伝統の灰汁発酵建で染色する藍工房ご夫婦」賞

 

近藤 美佐子(こんどう みさこ)さん

プロフィール

徳島県東みよし町出身、在住

藍工房「たった一本の幸せ」

藍染作家

ジャンル

伝統工芸

藍染

地域振興

経歴・実績

1997年 藍師から藍染めを習う

2009年 腹話術ボランティア開始

2011年 東みよし町役所退職

藍工房「「たった一本の幸せ」開設

2012年 「笑い1本頂きます」徳島新聞 詩壇賞

受賞者のご紹介

近藤 美佐子(こんどう みさこ)さんは、藍染作家。徳島県東みよし町で藍染工房「たった一本の幸せ」を営んでおられる。

ご主人の公人(きみひと)さんも勤務先を退職後、奥様の美佐子(みさこ)さんを手伝って、藍染を始め、今では、徳島県展、入選、準特選に選ばれるほどに。

2013年9月、徳島県三好市池田町の「うだつマルシェ」に出店しておられた近藤さんと、黒木先生のご紹介で知り合い、工房にお邪魔した。

藍染を始めたきっかけ

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「東みよし町(旧三好町)役場に勤めていまして、昭和63(1985)年から企画振興課に配属になり、平成8(1996)年に、吉野川ハイウェイオアシスの開設に合わせて、旧三好町特産品がないので新たに開発しようと、『三好郡特産品研究会』を立ち上げその事務局の担当になりました。」

「主婦でつくる12グループで、蚕のまゆで花を作る『まゆの花』やかずら細工のフクロウ、自家製大豆を原料とする『手づくり味噌』、男味(辛い)と女味(甘い)漬け物等の商品が誕生して、当時、結構な評判になりました。」

「その時、旧三好町(現東みよし市)で途絶えていた徳島県の特産品である藍染を復活させてはどうかという話も持ち上がり、主婦のグループと一緒に藍師の先生から藍染を習い、その素晴らしさに魅了されました。藍染に使う『すくも』は高価で、藍の葉は売れるので、町の産業にしようと町内で栽培を促進し、私自身も栽培を始めました。」

「その後、平成9年(1997)年には、産業経済課に移動し、産地直売所である『ふるさと朝市』の事務局の担当になりました。当時、無料のサービス商品提供で集客していたのですが、売上につながっていなかったため、これを止めて、その日のオススメ商品のチラシを作って、毎朝、配布したところ、繁盛し始めて、平成11(1999)年には、国から地方活性化の表彰も頂きました。」

「三好郡特産品研究会の事務局を離れた後も、藍染めは、義母の介護をしながら、自宅でできる趣味として個人的に続けてきました。」

藍染めとは?

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「阿波藍の起源は平安時代、徳島の山岳地帯で阿波忌部(いんべ)氏が織った荒妙(あらたえ)という、麻や楮、藤などの繊維で粗く織った布を染めるために、栽培が始まったと伝えられています。戦国時代になって、武士のよろい下を藍で染めるようになり、藍の需要が高まり生産が本格的に行われるようになりました。それまでは、葉藍を水につけて染め液をつくる沈殿藍で藍染めを行っていましたが、藍の葉を発酵させて染料にした『すくも』の製法と、それを使った染めの技術が伝わり、すくもづくりが本格的に行われるようになりました。」

※阿波忌部とは、古代の朝廷祭祀を担当した忌部氏に仕えた集団で、麻の栽培技術等を全国に伝えたとされる

「徳島藩では藍の生産を保護、奨励しましたので、藍づくりはいよいよ隆盛を極めるようになりました。明治以降も藍作は盛んに行われ、北海道から九州まで栽培されるようになり、全国的には明治30年代に最高の生産規模になり、中でも、徳島県は作付面積、生産量とも全国の過半を占めていました。」

「その後、インドから色素含有量が多く良質で安価なインド藍が輸入され始め、明治後期にはドイツで化学合成が成功し、合成藍の輸入が急速に増大し、日本の藍づくりは衰退の一途をたどりました。」

「藍染めの青い色は、タデ科に属する1年生草本の葉に含まれる青藍を染料として生まれてくるもので、『JAPAN BLUE』と呼ばれ、世界に知られる深く鮮やかな日本の色で、何度も繰り返し染めることで深みが増し、濃淡も表現できます。」

藍染めの原理と手順

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タデ藍の葉を乾燥させた後、発酵させて「すくも」をつくる

 

「『すくも』とはタデ藍の葉を乾燥させ、100日以上かけて発酵させて作った堆肥状のものです。発酵させることにより、タデ藍の葉の中に含まれるインジカンという成分が藍染に必要な色素であるインジゴに変化しています。『すくも』を突き固めて固形化したものを『藍玉』と呼びます。」

「草木染め等に使われる多くの植物染料は、煮出すことによって色素を抽出して、染料を繊維に定着させる媒染剤で発色し、染色しますが、藍の色素であるインジゴは水に不溶性であるため、その方法では染められません。」

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すくもを発酵させ、アルカリ性の溶液に溶かして藍染液をつくる

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「そこで、すくもに棲んでいる藍建て菌の力を借り、アルコールやデンプン、糖等の栄養を与えて醗酵させ、不溶性のインジゴを一旦アルカリ性の溶液に溶けるロイコインジゴに還元し、これがアルカリ性の溶液に溶けると黄色のソルブルインジコ(インジゴホワイト)の溶液=藍染液になります。」

藍染液に浸け、空気中にさらして酸化すると発色

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「その溶液に繊維を浸けて吸収させ、その後、空気中にさらして酸素によって酸化すると、インジゴに戻るので、発色して藍色に染色します。」

藍染液の作り方

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「染料の『すくも』に灰を水で溶いた灰汁(あく)を加え、発酵させて藍染液を作ります。この藍染液を作ることを 「藍建て(あいだて)」と呼びます。灰汁はアルカリ性で、適度なpH値(pH11程度)をつくり出すためには、樫やナラ等の堅木の木灰がよいとされています。」

「菌の活動を助けるために日本酒やフスマ(小麦の糠)を加え、最適な温度を保つことで、発酵が進んで藍染液ができます。これが、『天然灰汁発酵建て』と呼ばれる古くからの藍染技法です。菌は強アルカリを好みますが、発酵が進むにつれ、藍の華と呼ばれる気泡ができてきます。アルカリ度も徐々に下がっていきますので、腐敗を促す他の細菌の活動を抑えつつ、石灰やフスマを適宜施し、良好な発酵状態を維持しながら灰汁で嵩上げして初めて布を染めることができる藍染液となります。」

「すくもは非常に貴重で高価なので、藍建てに失敗は許されません。細心の注意を払います。できた藍染液の寿命は3ヵ月程ですが、生きているので管理が大変です。状態を見ながら、石灰や酒、フスマを加えて維持をします。」

「すくも」もご自身で?

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「以前は、藍葉を自分でも栽培していたのですが、今は地元の農家さんにお願いし、その葉を石垣土壁のめずらしい倉庫で発酵させて『すくも』を作っています。藍甕(カメ)の管理は、主人が担当してくれています。」

勝手に師事した高名な藍染の先生とは?

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「藍染で有名な先生が東みよしに住んでおられるというのを人伝に聞いていて、たまたま、黒木先生がご存知だったのでご紹介頂きました。初めて浴衣用の一反(約13m)の布を染めることができた時に、嬉しくてその先生に見せに行ったところ、何処で染めたか尋ねられ、『自宅です』とお答えしたら、褒めて下さって、跳び上がるぐらい嬉しかったですね。」

「『でも、灰汁ではなく、苛性ソーダを使っていますね?色を見たらわかります』と言われました。軽々しくお願いできるような先生ではなかったのですが、『教えてください』とお願いしたところ、『藍染めを教えて欲しいと来る人は多いですが、自分の作品を見て欲しいと持って来た人はあなたが初めてです』と、藍甕を見せて下さいました。」

「それで、藍甕の蓋を開けようとしたら、何をするんですか?他人の家のお櫃を勝手に開けるようなものですよとピシャリと叱られましたが、その藍甕の中の藍は光っていて、その素晴らしさに感動しました。伝統の技というか、超一流の先生の藍建てを間近に見せて頂き、さらに藍染めに没頭することになりました。」

「一切、弟子は取らない先生でしたが、それから3年間程、その先生の元に通って、勝手に師事させて頂きました。プロのコツや技法は自分で見て考えなさいと、タンスを開けて、先生の作品や染めに使う布を見せて下さいました。藍染作家は手芸をしてはいけないとも教えられましたが、私は手芸が好きなので、頼まれれば、染めた布で服でも何でも作っていますが…。」

その先生の技は習得できましたか?

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「ハハハハ、それはどうでしょうか?藍染は、染める布の折りたたみ方や絞り方で色々な模様や色合いが出せたりするのですが、私にとって、超一流の先生の仕事や作品を間近で見せて頂いたことは何ものにも代えがたい財産です。もちろん、先生には到底、及びませんが、先生が創り出された染め方とほぼ同じように再現できたものもありますね。」

「平成23年に役所を退職して、主人の父の家を改造し、この藍染め工房を開設しました。初めて個展を開く時に、先生に報告に伺ったら、自分のことのように喜んで下さって、自分の作品も好きなものを好きなだけ持って行きなさい、と貸して下ささいました。5点展示させて頂いたのですが、値段のつけようのない逸品ばかりだったので、気が気ではなかったですよ。」

「たった一本の幸せ」とは?

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「本物の藍染めの良さをもっと多くの人に知って頂きたいと思います。芸術的な作品だけでなく、特に、若い方々にも手に取って、使って頂けるような身近な商品にも力を入れて行きたいと思っています。」

「実は、主人は大病を患い、なんとか克服して、今では、元気に藍建ても手伝ってくれているのですが、『辛い』という漢字に一本(横一)足すと『幸せ』になります。『たった一本の幸せ』という藍工房の名前は、辛かった日々を経て、再びつかんだ幸せの喜びを忘れないように、私が作った詩のタイトルから付けました。」

「『たった一本』を前向きにとらえてもらって、ほんの少しでも笑っていただこうと、主人と二人で6体の人形を使って腹話術のボランティア活動や講演活動を実施しています。目標にして来た100回の公演まであと少しなので、そちらもがんばりたいと思います。」

COREZO(コレゾ)賞・財団の趣旨をご説明し、受賞のお願いをしたところ、「私でよろしければ・・・。」と、ご承諾下さった。

COREZOコレゾ「『辛い』に一本横一足すだけで『幸せ』になる、そんな『たった一本の幸せ』を大切にして、伝統の灰汁発酵建で染色する藍工房ご夫婦」である。

後日談1.第2回2013年度COREZO(コレゾ)賞表彰式

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後日談2.藍は踊る展

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2015年2月、徳島県三好市池田町本通りで開かれていた「藍は踊る展」にお邪魔した。一旦、工房をお子さんの住む徳島市内に移されたようだが、やっぱり、住み慣れた東みよし町に戻したいそうだ。また、ご主人は、病床から復帰されて、元気を取り戻されつつあるそうだが、まだ万全ではなく、すくもづくりは当分、お休みするとのことだった。

COREZO (コレゾ)賞 事務局

初稿;2013.11.14.

最終取材;2022.10.

最終更新;2022.10.22.

文責;平野 龍平

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