吉田 桂介(よしだ けいすけ)さん/桂樹舎・和紙文庫

COREZOコレゾ「ちゃらんぽらんに始めて和紙づくり一筋、98歳生涯現役の和紙工芸家」賞

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吉田 桂介(よしだ けいすけ)さん

プロフィール

富山県八尾町出身、在住

桂樹舎・和紙文庫 代表

現役の和紙工芸家

ジャンル

伝統文化・工芸

和紙工芸

経歴・実績

1915年 富山県八尾町生まれ

1935年  を始める

1937年 民藝運動の柳宗悦氏らに触発を受け和紙づくりを生涯の仕事と定める

1947年 株式会社越中紙社 設立

1960年 有限会社桂樹舎 設立

1968年 富山県優秀技能賞

1970年 労働大臣卓越技能賞

1971年 富山新聞文化賞

1973年 富山県功労賞

1982年 黄綬褒章受章

1986年 桂樹舎和紙文庫を設立、開館

1988年 勲五等瑞宝章受章

1995年 北日本新聞文化功労賞受賞

著書「越中産紙手鑑」ほか

受賞者のご紹介

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「おわら風の盆」で全国的にも有名な富山市八尾町

富山県富山市八尾町は、富山県を代表する祭である「おわら風の盆」で全国的にも有名である。富山平野の南西部から飛騨の山脈に連なる街道筋の岐阜県との県境に位置し、かつては「富山藩の御納戸」と称されるほど経済力豊かな町で、街道の拠点として飛騨との交易や売薬、売薬用紙の販売、養蚕などで繁栄していたそうだ。

ある美術家の方から、その八尾町に日本の著名な美術家の皆さんが是非一緒に仕事をしたいという和紙工芸家がいらっしゃるという話を伺い、その方にお伴して、吉田桂介(よしだ けいすけ)さんを訪ねた。

桂樹舎・和紙文庫は八尾の旧町の鏡町にあり、あわら風の盆の開催地区にあると思われるが、当日はあいにくの雨天であったからか、TVの報道等で見る祭の時の賑わいとは別の町のように静まり返り、歩いている人さえ見かけなかった。

「和紙文庫」は、吉田桂介さんが廃校になった小学校を町から譲り受け、現在の場所に移築したそうだ。手漉き紙に関するものが和洋問わず展示されており、さながら「世界紙工芸博物館」のようである。紙漉き作業の見学や予約をすれば紙漉きも体験できる。

東京に出て、三越本店の呉服売場で働く

吉田さんは1929年に東京に出て、三越本店の呉服売場で働いていた。呉服売場といっても、お客様から頼まれれば、何でも用意しなければならない。全館で販売しているあらゆる商品の知識とその背景を勉強した。それが後々、役に立つことになる。

何の興味もなく「富山県製紙指導所」の講習生に

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ところが、17歳の頃に結核に罹り、療養のために故郷に戻った。当時、肺病は不治の病だったが、運良く快方に向かった。そうなるとブラブラとしてられなくなって、その頃できた「富山県製紙指導所」に何の興味もなく申込んだら、講習生として採用された。

元気になったら東京に戻るつもりだったので、とにかくちゃらんぽらんにやっていた。当時、ゴールデンバットが1箱7銭の時代に日当10銭もらえたので、半年間の講習期間が過ぎたのに、なんとなくそのまま居着いてしまった。

和紙づくりのおもしろさに惹かれる自分に気づく

 

当時、既に和紙は斜陽産業で、東京に戻ることばかり考えていたのに、1年もすると、生産者や紙問屋とも親しくなって、少しづつ、紙漉きや和紙のことを知り始めると、原料のコウゾやミツマタの光沢や自然が生み出す美しさ・・・。何もわからん者でも惹き付けられる魅力があった。

そうなると、自分でもオリジナルの紙を作りたくなる。紙の漉き方をいろいろ考えるようになった。草木染料を使って色を付ける方法等のアイデアが浮かんで来ると、自然に仕事にも熱が入って、際限なくおもしろくなってくる。色や漉き模様を工夫して、こんなことは今まで誰もやったことがないだろうとイキがっていたら、先人たちがとうの昔にみんなやっていたことばかりで、昔の人は偉いものだと感心するしかなかった。

そのうちに体調も良くなって、再び、東京に行くことにした。働き口も見つかり、切符も買い、いよいよ明日には出発という夜になって、紙づくりのおもしろさに後ろ髪を引かれる自分に気づき、行くのを止めてしまった。

「富山県美術紙研究所」を設立

そんな時、指導所時代に作った紙に興味を持ってくれた人が現れた。2人で意気投合して、今まで世の中にない紙を作るぞと意気込んでいたら、八尾町の有志も協力してくれて、「富山県美術紙研究所」を設立した。そこでは、美術紙をつくった。それが我が国の美術紙と呼ばれる紙の先駆けであっただろう。大阪や京都の紙問屋に持って行くとおもしろいように売れた。

民藝運動の柳 宗悦(やなぎ むねよし)先生から薫陶を受ける

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1936年、民藝運動を展開されていた柳宗悦(やなぎむねよし)という先生が日本民藝館を東京に設立された。富山県民藝協会でその先生が発行されていた「工藝」という雑誌を見せてもらった。そこには、「和紙は日本文化を支えて来た最も重要なもので、世界中探しても、これほど質が高く、丈夫で、美しく、気品のある紙はない。」と書かれてあり、大感激して、一面識もない柳宗悦先生を東京に訪ねた。

先生は書斎に招き入れ、いろいろな紙の見本を見せて下さり、「今、世の中には、色の白い、弱い、安物の紙が沢山あるけれど、これらの紙は、化学染料でなく、天然の草木染めをして、伝統の手法で真面目に作られているからこそ美しい。君は、伝統をしっかり守って、昔のままの紙をやりなさい。そうすれば間違いない。」と、おっしゃった。吉田さんが和紙づくりを生涯の仕事と定めた1937年のことであった。

染色工芸家の芹沢 銈介(せりざわ けいすけ)先生を生涯の師として仰ぐ

柳先生からは、染色工芸家の芹沢銈介(せりざわけいすけ)先生をご紹介頂き、その先生の和紙染めの仕事に八尾の和紙を提供することができた。また、芹沢先生からは型染めの技法を学び、大きな影響を受け、生涯の師として仰ぐことになる。

1937年、日中戦争が起こり、戦争が拡大して物資が不足してきた。皮革も不足し、皮革に代わるものを研究していた「日本擬革製造」という会社が、自分たちがつくっていたコウゾ繊維に色の繊維を混ぜた模様の入った和紙に目をつけた。その和紙にラテックス(ゴム)をコーティングして皮革の代用品を製造しようというのである。「富山県美術紙研究所」を買収したいと言ってきた。

自分の会社を売却

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それで、自分の会社を売却し、その会社の社員になった。給料をもらう身分になって、最初のうちは、「こりゃあ楽でええわい。」と思っていたが、自分が作りたい紙が作れなくなり、おもしろくなくなって辞めてしまった。

何もすることがなくブラブラしていたら、有難いことに、八尾町の旦那衆が出資し合って、紙漉工場を設立してくれた。1941年から生産を開始し、軍事物資を作らないと原料が配給されない状況になっていたので、軍隊手帳他、あらゆる軍用紙を作った。

やがて終戦を迎えると、世の中はモノ不足で、どんな紙でも売れる時代になった。会社は機械を導入して、ちり紙の生産を始めた。ご恩のある会社であったが、和紙づくりを生涯の仕事に決めていたし、利益重視の方針にも馴染めず、また辞めてしまった。終戦直後の1946年、31歳になっていた。

もう1回、紙漉工場を作ろうと思ったが、お金は1円もない。今度は親戚廻りをして資金を集めたが、まだ足りない。知人から、北陸電力の元社長で、富山経済界の大御所を紹介してもらい、無謀にも、「戦争に敗れ、国は乱れて、日本の伝統文化の存続も危うい。和紙は日本の文化を支えてきた重要な素材。日本の大切な文化を何としてでも守りたい。」と、一生懸命訴えたら、すぐに銀行に連絡して、資金を提供して下さった。その上、富山の若い経済人にも声をかけ、出資を促して下さった。

「越中紙社」を設立

こうして、1947年、「越中紙社」を設立し、念願の手漉き和紙を再開し、これまでにないような紙を作ろうと染色紙を始めた。日本の古来からある美しい色を如何に天然の草木染料を使って紙に表現するか苦心した。

設立後2〜3年はずっと赤字だった。大学の先生や出版社に需要があると読んで、直接、売り込むために東京に通い、ようやく本に使ってもらえることになった。当時は日本中が活字に餓えていたので、増刷に次ぐ増刷で、越中紙社はどうにか軌道に乗った。

手仕事の分野は連鎖的に消滅

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しかし、世の中はどんどん変わる。和紙の領域もどんどん変わる。番傘が無くなり、住宅の様式化で障子や襖の需要が激減した。手漉き職人が工夫を凝らしても、機械漉きが発達して、すぐに真似をして、手漉き紙の分野を侵蝕してくる。

八尾の山側に500軒はあった手漉きの農家も昭和40年代には1軒もなくなり、原料のコウゾも栽培されなくなった。海外でも原料を探したが、質が和紙に合わない。国産の材料はあっても量が少ないから高騰してしまう。さらに、紙を漉くスダレ等の道具をつくる人がいなくなってしまった。こうして手仕事の分野は連鎖的に消滅していく。

手漉き和紙を続けて、次の世代に引き継いでいきたい

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日本にはコウゾやミツマタのような良質な原料と先人たちから続く優れた技術があり、世界に誇れる素晴らしい紙を作れるのだから、問題は山のようにあるが、ひとつひとつ克服して、手漉き和紙を続けて、次の世代に引き継いでいきたいという強い想いがある。

「八尾に生まれて、八尾と八尾の人々のご恩になりっぱなしで生きてきた。和紙を八尾や富山、さらには日本の特産品に育てたい。また、『おわら』は涙が出るほど魅力的で、有名になったが、せっかく来て下さった人々にもっと楽しんでもらって、何度も八尾に来て頂きたい。」と、町家で芸術作品を展示する「坂の町アート」を主宰したり、町おこしのリーダー的存在でもある。

ひと目お目に掛かったその時から、吉田さんには是非ともコレゾ賞を受賞して頂きたいと思い、お願いをしてみた。

「えっ?何っ?えっ?何っそれ?えっ?」とおっしゃるので、ご案内用のチラシをご覧頂いた。隅から隅までじっくりとお読み下さって、

「いちいち全てごもっとも、大変賛成です。ご無理ごもっともで受賞させて頂きます。」と、ご了解頂いた。

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脳梗塞を患われたそうで、しゃべるのがもどかしく感じたり、ご高齢で、耳も聴こえ難くなられたそうだが、お伴させて頂いた美術家の方との仕事の打合せになると、テーブルにサンプルをサッと拡げ、プロの和紙工芸家の顔つきに一変される。吉田桂介さんのご年齢を伺って驚いた。生涯現役、大正4(1915)年生まれの御年97歳(2012年取材当時)である。

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帰り際、ご遠慮申し上げたのだが、雨の中、傘もささずに車が見えなくなるまで見送って下さった。

 

COREZO(コレゾ)「生涯現役の98歳、ちゃらんぽらんに始めて和紙づくり一筋」、いつまでもお元気でご活躍頂きたい。

 

後日談1.桂樹舎和紙文庫に再訪

2013年7月、山田脩二さんと吉田桂介さんを訪ねた。一時、体調を崩されていたようだが、とてもお元気になられていて、かなり急な階段もご自分で上り下りされ、桂樹舎和紙文庫を案内して下さった。

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後日談2.訃報

2014年7月、吉田 桂介(よしだ けいすけ)さんがご逝去されました。前年の訪問が、吉田桂介さんとの最後の思い出になるとは思いもしなかった。ご冥福をお祈り致します。合掌。

COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿;2012.09.22.

最終取材;2013.07.

最終更新;2015.03.05.

文責;平野 龍平

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