宮本 博史(みやもと ひろふみ)さん/阿蘇はなびし

COREZOコレゾ「迷ったら原点に戻る、若きゃもんと親世代が協力して取り組む、商店街振興とまちづくり」賞

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宮本 博史(みやもと ひろふみ)さん

プロフィール

熊本県阿蘇市出身

阿蘇はなびし 代表取締役

阿蘇一の宮門前町商店街 若きゃもん会

ジャンル

観光地域振興

商店街振興

飲食店経営

経歴・実績

1998年 家業の食事処「阿蘇はなびし」を継ぐ

2001年 商店街の2代目を中心とした「若きゃもん会」を結成

熊本県商工会青年部連合会 副会長

阿蘇市商工会青年部 部長

阿蘇地区商工会青年部連絡協議会 会長

二級建築士

受賞者のご紹介

阿蘇一の宮門前町商店街「若きゃもん会」

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2005年、ある観光地域振興事業で、阿蘇地域がその対象地域になり、当時、財団法人阿蘇地域振興デザインセンター(以下、阿蘇DC)の事務局長をされていた坂元 英俊(さかもと ひでとし)さんに、最初にご案内頂いたのが、阿蘇一の宮門前町商店街で、その若きゃもん会の杉本 真也(すぎもと しんや)さんと宮本 博史(みやもと ひろふみ)さんをご紹介頂いた。

杉本さんは精肉店「阿蘇とり宮」の二代目、宮本さんは食事処「阿蘇はなびし」の二代目。お二人は名コンビでその事業終了後も折にふれ、お付き合いを頂いている。

「馬ロッケ」、「畑のメンチカツ」、「田舎いなり」とは?

「阿蘇とり宮」の「馬ロッケ」と「畑のメンチカツ」、「阿蘇はなびし」の「田舎いなり」を昼食に頂き、こちらも宮本さんが経営する「旧緒方屋」で「水出しコーヒー」をご馳走にながら話を伺ったのを覚えている。

「馬ロッケ」は甘辛く煮込んだ熊本名産の馬肉をじゃがいもで包んだコロッケ。「畑のメンチカツ」はおからとキャベツがたっぷり入った地鶏のメンチカツ。どちらも注文を聞いてから揚げたてを食べさせてくれるので、熱々で、外はサクサク、中はほっくり、ジューシーで、メチャうま。味付けにも工夫をされているようで、記憶に残るうまさだ。「阿蘇はなびし」の「田舎いなり」はとにかくデカイ。ちょっと甘めのおあげさんに野菜たっぷりの五目飯が詰まっている。野良仕事に持って行った特大いなりがその原形らしい。

この阿蘇一の宮門前町商店街は、熊本県阿蘇市の阿蘇神社の門前通りに、35軒ほどの商店が軒を連ねる全長約200mの小さな商店街だが、昭和40年代には、旧一の宮町で最も活気のある通りだったそうだ。阿蘇神社の農耕祭事が重なると、参道から商店街まで人が溢れて大騒ぎにだったという。

車が普及して、近所に大きなスーパーが出来ると、客足は遠のいていった。今やどこの町や都市の商店街にも当てはまる話だ。

初めて訪れた当時は、水基(水が出る基・水飲み場)や植栽の整備が進行中で、まだ今のような賑わいはなかったが、お二人には、「商店街を何とかするんだ」という気概がみなぎっているのを感じた。

ゴールデンウィークの真っ最中にキャッチボールが出来るって⁉︎

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一番印象に残っているのは、10数年前、いつものように商店街の通りでキャッチボールをしていた時に、

「オイ、このゴールデンウィークの真っ最中にキャッチボールが出来るほど、誰も人が通らんぞ。」

「これから5年後にここで商売しとると思う?5年後に住んどるとおもう?」

「自分らの子供に継ぐどころか、こりゃあ、自分らの代ももたんぞ。自分ら若もんがこの商店街とこの町をどないかせんとイカン!」という声が上がったという話。

「金曜夜市」をやろう

2001年、商店街の後継者10人が集まり「若きゃもん会」を結成した。まずは商店街に人を呼ぼうということになり、昔の賑わっていた頃の記憶を辿り、子供の頃、一番楽しかった夏の商店街の祭り、「金曜夜市」をやろうということになった。

そして、2002年1月から、「金曜夜市」の再開に向けて準備を始めたが、予算がない。そこで「仲町なんばーず」という抽選会を考えた。まず、必要経費をメンバーで頭割りして、10枚1組1000円の抽選券の割当枚数をメンバーが買い取る。売れ残れば赤字が出るのでみんな必死で販売して、ガソリン1000L券や韓国旅行、大型テレビ、現金10万円等豪華景品を用意した。「ケーキ早食いバトル」等、自分たちのできる企画を考え、工夫して、半年後の7月に実施すると、1000人が集まるほどの大盛況。

終了後、次回の準備を始め、翌年には1500人集客し、今では恒例行事となって、7月と8月の年2回開催している。

こうして「金曜夜市」は成功を収め、「やればできる」という自信と達成感、一体感を味わったが、イベントが終わると、商店街はもと通り。平日は商店街にあった2軒の金融機関に来たお客さんがついでに少しは買物をして下さるものの、休日は閑散としたもの。準備に何ヵ月もかけて、1日だけの集客ではなく、毎日足を運んでもらえるように次の手を打たなければならない。

阿蘇DCの坂元さんを若きゃもん会の勉強会の講師に

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そんな時、坂元さんが、財団法人阿蘇地域振興デザインセンターの事務局長に就任した。他に頼れる人もおらず、地域振興のノウハウも持っておられるようなので、2002年度から若きゃもん会の勉強会の講師になってもらった。

「商店街復興の考え方、方針をどうするか?」

「阿蘇神社には人が来るのに、どうすれば商店街に来てもらえるか?」

「30分間滞在できる商店街にするにはどうすればよいか?」

次々に課題が出てきて、みんなで真剣に考えた。その内に、阿蘇地域で循環バスを走らせる実証実験の計画も浮かんできた。

「利益の上がるものではなく、お客様が求めている商品を販売する。」

「何でもかんでも売るのではなく、一押し、目玉商品をつくる。」

「看板商品があれば、それを目指してお客さんは来て下さる。」

「食べ物が一番わかりやすい。おいしくて、こだわりのある商品」

「新しい商品を作るのか?既存の商品を良くするのか?」

「他の店にも立ち寄ってもらえるように手に持って歩ける商品」

「食べ歩きが出来れば、滞在時間が増える。」

「滞在が30分から1時間に延びれば、食事もしてもらえるようになる。」

と、次第にやるべきことが見えてきて、まずは、商店街の看板商品を「阿蘇とり宮」の「馬ロッケ」、「阿蘇はなびし」の「田舎いなり」、洋菓子店「たのや」の「たのシュー(小振りのシュークリーム)」の3商品に絞り込み、それぞれ、食べ歩きが出来るようにパッケージを工夫した。

地元の人が知らないところには、観光客も来ない⁉︎

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当時、若きゃもん会の活動拠点は、宮本さんの「旧緒方屋」だった。商店街の入口近くにある築90年を超える古民家。持ち主が町に寄付しようとしたが、話がまとまらず、商店会に話がまわってきて、結局、宮本さんが個人で買い取った。床が落ちて畳も腐っていたが、自分たちで改修、館内に町の古い写真を展示してギャラリーにした(現在はカフェや雑貨も扱う複合施設になっている)。
古い写真は商店街の先代の親父さんたちやじいちゃん、ばあちゃんたちが持ち寄ってくれた。誰もが気軽に立ち寄って休憩したり、おしゃべりしたり、そんなコミュニティーセンターの要素を持ち合わせた町の拠点とするのが目的だった。昔の写真を見たお年寄りが当時の話をしたり、若者は自分たちの知らない時代のことを学ぶこともできる。

「観光客がまず旧緒方屋に立ち寄って、情報を仕入れ、町めぐりして、帰りにも寄ってもらえるようにしたかった。『旧緒方屋に行ったら何かある』と言われるような、一の宮町の情報発信の核にしようと思った。」と、宮本さん。

循環バスの実証実験の際には、先代の親父さんたちが作ってくれた昔懐かしい「たかんぽ(竹水筒)」を「フォトギャラリー」で販売して、商店街の3つの看板商品と共に訪れた観光客に好評だった。

これで機が熟したとみた阿蘇DCの坂元さんは知り合いのマスコミに売り込み、情報番組のTV取材が入った。放送された当日、普段、300個ぐらいだった「馬ロッケ」が500売れた。翌日は1000個・・・。

「とにかく、お客様が来て下さるのが嬉しかった。TV番組の威力はスゴイと思いましたね。でも、1週間もすればホトボリも冷めるだろうと思っていたら、雑誌やTVの取材が次々に入るようになって、多くの人々に見られるようになり、商品を買いに来て下さる人が増えると、きれいに掃除したり、店舗を改装して良くしたりするようになりました。人が来る→きれいにする→ほめられる→さらにがんばるといういい循環に大きく流れが変わり始めました。」

「ピークに達した危機感を自分たちの世代が共有したのが大きかったのですが、先代の親父たちの世代が下地を作ってくれていたんですよ。」と、杉本さん。

「商店街でお花見!」を開催

商店街では10数年前まで、景品に花の小鉢を配る「花祭り」という大した効果の上がっていない販促イベントをしていた。「たとえ年に1回でも来て下さるお客様に喜んで頂けるよう桜を植えよう。町並みの景観が良くなるし、夏には木陰も出来る。」と言い出し、賛同者と共に商店主や地主に説得してまわり、自費で植樹を始めた。

桜は虫がつき、病気に犯されやすく、落ち葉の処理等、問題は山積みだったが、やがて、市の補助が付いたり、「花祭り」を止めて桜の維持管理に充てようという動きも出てきて、毎年、きれいな花を咲かせているそうだ。

2009年3月には別の親父さんが「桜も大きくなったし、この桜を活かした『花祭り』をしたらいいぞ。」と言い出した。「それなら花見だ。」と、若きゃもん会は、またもや予算のない中、あの手この手で畳を集め、商店街の通りに200枚以上敷いて、「商店街でお花見!」と名付けたオールフリーの花見大会を開いて大盛況。

「桜も最初は誰が落ち葉を掃除するかで揉め事も絶えなかったのですが、商店街に来られたお客様から、桜がきれいですね、きれいな商店街ですね、と言われ続けると褒められるのが嫌な人間はいないみたいで、誰も苦情を言わなくなりましたね。」

「旅する蚤の市、in阿蘇」を開催

さらに、2011年からは、「旅する蚤の市、in阿蘇」なる骨董・露天市を企画、すでに通算3回開催し、毎回2万人を超す集客をしている。これまでとは違う層のお客様も訪れて下さって、商店主たちの大きな刺激にもなっているという。

「学校を出て、カナダに行ってまして、現地のログハウス・メーカーに就職するつもりだったのですが、インテリアショップを営んでいた実家が、食事処『はなびし』を開店したので手伝えと言われて、戻ってきました。ちょうどその頃、宮崎の外食チェーンで働いていた杉本さんも戻って来ていて、杉本さんの親父さんの隠居家の設計を頼まれたので、設計事務所を設立したんです。そうしたら、この辺りの工務店や建築事務所の建築確認申請の仕事が次々入って来て、忙しく動き回っていたんですよ。」

『本日、今を以て事業を全て譲る。』

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「そうこうしているうちに、『はなびし』の経営が思わしくなかったようで、ある朝、父親が、寝起きの私の目の前に、権利書、通帳、印鑑、他一切合切をおいて、『本日、今を以て事業を全て譲る。』と、唐突に言われて、跡を継ぐことになりました。23歳の時でした、ガハハハ。」

「パパッと帳面を見たら、バンザイ寸前の状態で、これはヤバイと、ガハハハ。それでね、母親からこれにだけは手を付けんでくれ、と懇願された虎の子の現金100万を使って、改装して宴会場を作ったんですよ。忘年会シーズン前だったし、建築確認申請に行くついでに役所に営業しましてね、なんとか持ち直しました、ガハハハ。」

「その後、お昼のお客様を増やすのに、観光客を誘致したいと思うようになりました。そして、杉本さんが話したキャッチボールの一件もあって、人を呼べる商店街にしたい、たくさんの人で賑わう商店街にしたいと思い始めた頃に坂元さんが阿蘇DCの局長に就任しました。」

自分たちで考えて行動する

「坂元さんの話される内容は、目から鱗の話ばかりで、物事の本質しか言わず、あとは自分たちで考えて行動しろと、とにかく、しかっかり坂元イズムを学ぼうと思いました。杉本さんは配達や店の切り盛りで日中忙しかったので、比較的自由に動けた自分がミッチャク取材をしました。坂元さんは雇われて阿蘇DCに来られているので、いつか去られる日も来るだろう。それまでに自分たちで自立できるようになろうと必死でした。」

「親父さんたちの世代に手伝ってもらいながら、『金曜夜市』など、少しずつ積んで来た成功体験の貯金も役に立ちました。いきなり禅問答のような坂元さんの話を聞いても理解できなかったでしょう。」

権利を主張する前に責任を負う

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「杉本さんの親父さんの1世代下が私の親父、その1世代下が杉本さん、その1世代下が私で、うまく世代交代が出来たことも効を奏したと思います。最近は若い人たちからもよく相談を受けますが、お金の苦労もしていないので、現実がよくわかっていない、わかないこと自体が何かもわからない人が増えています。杉本さんも私も事業継承するのが早かったので、権利を主張する前に責任を負うことになって、責任転嫁も言い訳も出来ない立場で崖っぷちに立ったので、必死にやってこれたのだと思います。」

「若きゃもん会が取組みを始めて、この商店街、この町に来て頂く観光客数は年間0から20万人に急激に増加しましたが、その20万人が、店舗数、収容人数、駐車場の規模からもひとつの壁にもなっています。杉本さんも話されていましたが、困った時は原点に戻ることです。今後は、直接、お金を生まなくても、儲けにならなくても、商店街に訪れて下さったお客様に、通りでゆっくり過ごしてもらって、喜んで頂けることに力を入れていこうと話し合っています。」

「2012年の9月で坂元さんは阿蘇DCを退職され、寂しくなりますが、自分たちは坂元イズムを受け継ぎ、自分たちなりにアレンジして、考え、行動できるようになりました。この商店街も名前を知られるようになり、有難いことに、全国から視察に来て下さるようにもなりました。今日もある自治体が視察に来られましたが、出来るだけ丁寧に対応して、自分たちの経験を包み隠さずお話しするようにしています。現実をご覧頂き、少しでもヒントになるものがあれば、持ち帰ってもらって、地域の状況に合わせて、自分たちで考え、行動してもらえれば嬉しいです。そうして元気な商店街、町や地域が増えれば、日本全体も元気になるのではないでしょうか。」と、宮本さん。

あんまりにもええ話過ぎて、ドン引きし、頂いた地方議員のセンセのような名刺を見て更に躊躇したが、コレゾ賞の趣旨をご説明して、受賞のお願いをしたところ、

「えっ?それはウラに何かよからぬ企みがあるのですか?」と、疑われつつも、渋々、ご承諾頂いた。

COREZOコレゾ「迷ったら原点に戻る、若きゃもんと親世代が協力して取り組む、商店街振興とまちづくり」だ。

後日談1.第1回2012年度COREZO(コレゾ)賞表彰式

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COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿;2012.11.02.

最終取材;2012.09.

編集更新;2015.03.01.

文責;平野 龍平

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