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長野県小布施町のまちづくり3、セーラさんが小布施に残したものとは?
長野県小布施町を訪れたと云うと、セーラさんのことを聞かれる程、セーラ・マリ・カミングスさんは有名人だ。2013年に初めて小布施を訪れたのだが、それはセーラさんが小布施堂から独立されるのとちょうど重なる時期だった。
小布施堂社長、市村 次夫(いちむら つぎお)さん
雇い主だった小布施堂の市村社長にセーラさんについて伺った。
https://corezoprize.com/tsugio-ichimura
1995年、セーラさんが小布施にやってきた
「セーラが小布施に来たのは、1995年でした。長野オリンピックが1998年だったのですが、長野五輪終了時に地元に残された通訳ボランティアなどの人的インフラを活用すれば、人口1万2千人の小布施でも国際イベントの開催は可能なはず、と言い始めて、1996年か7年には、北斎研究の大ボスだったベニス大学の教授と話をつけてしまいました。」
「それで、『第3回国際北斎会議』を開催できるメドがついて、当時の町長と一緒にイタリアに行って調印式をやったのですが、その時に、実行力があるというか、当時、そういう言葉がなかったですけど、突破力のようなものを彼女には感じました。」
ブレークスルーに必要な人材かも知れない
「オリンピックが終わるまでという話だったのが、『小布施ッション』だとか、『小布施見にマラソン』だとか、次々に新しい企画を出してくるもんですから、小布施にとっても、そういうイベント性の高いものも必要なんだろうな、ブレークスルーに必要な人材かも知れない、という気がしましたね。」
第3回国際北斎会議 & 北斎フェスティバル
1998年4月、長野五輪終了により地元に残された通訳ボランティアなどの人的インフラを活用して小布施で開催した国際学術会議で、世界中から北斎の研究家や学生や画商など150人と国内から350人の合わせて500人が一堂に会した。
これに合わせて小布施町は「北斎フェスティバル」を開催して北斎の町を視覚的にも具現化し、併せて、県立信濃美術館では「北斎―東西の架け橋―展」も開かれた。この展覧会は続いて東京、山口で開催され、合計入場者は12万人に達した。
桶仕込み保存会
桝一市村酒造場では、2000年に木桶仕込みを50年ぶりに復活したが、それだけでは桶屋さんの仕事が継続できないので、全国の造り酒屋に木桶仕込みの復活を働きかけ、30以上の蔵で復活するようになった。
参考
日本でただ1社残る製桶メーカー、藤井製桶所の上芝さんは、「絶滅寸前だった木桶の文化が生き残れたのはセーラさんのおかげだ。」とおっしゃっている。
https://corezoprize.com/takeshi-ueshiba
小布施ッション
2001年8月8日に第1回が開かれて以来、毎月ゾロ目の日(1月のみ11日)に開催され、2013年7月7日まで、12年間144回続いたイベント仕立ての文化サロン。
毎回異なるジャンルのゲストスピーカーによる講演と全員参加のパーティーで構成され、参加者は遠来の方と地元の人々が半々で、初対面の人々との交流を持つ出会いの場となっていた。
吉田桂介さん、山田脩二さん、梅原真さん、上芝雄史さんもゲストスピーカーとして招かれておられる。
https://corezoprize.com/keisuke-yoshida
https://corezoprize.com/shuji-yamada
https://corezoprize.com/makoto-umebara
https://corezoprize.com/takeshi-ueshiba
小布施見にマラソン
小布施が長野マラソンのコースから外れることに決まり、それならば小布施で単独開催しよう、ということで急遽、2003年「海の日」から始まったハーフマラソン。スポンサーの付いた冠イベントではなく、また行政の補助金もない町民と参加者による手作りイベントとしてスタートした。
成功か失敗かを決めるのは、どの価値観で見るかによる
「そもそも、建築家の宮本忠長さんが設計、コーディネートした『小布施町町並み修景事業』以来の小布施があったから、京都や奈良、倉敷とはちょっと違う、アメリカで思い描いた日本のイメージそのものだ、と云って、セーラ・カミングスがここでワラジを脱いだ訳です。そのセーラがいなかったら、金石君や西山君はここにいないだろうし、私は、山田さんともセーラを通じて知り合った訳だから、平野さんとも出会ってなかったかも知れないということになります。」
「セーラには、突破力と同時に、発信力がありましたから、歴史的に見れば、光の部分が大きいと思いますが、同時代に同じ事に携わった人には、何かしらの傷として残っているところも多分にありますね。ですから、光の部分と同時に影の部分もあって、それは拭いきれないと思います。でも、いつか彼女と一緒に関わった人たちの存在が無くなって、純粋に歴史として振り返った時には、光の部分だけが輝いて見えてくるのではないでしょうか?」
「高井鴻山という人は、そんなにマネージメント能力があった人ではなかったんですよ。でも、一方で、北斎というあんな難しい人が、わざわざ訪ねて来るぐらいの魅力もあったはずです。で、何をやったかというと、お寺の天井絵や祭屋台をつくって、当時の人にしてみれば、何の道楽だ?って感じですけど、今になってみると、それこそ、それ自体が小布施のアイディンティティに充分なっている訳でしょ?だから、そんなようなところがあるような気がするんですよ。」
「天井絵や祭屋台と比べると、『小布施ッション』や『見にマラソン』というイベントだとか、あるいは、『蔵部』や『客殿』というハードだとかいうものは、性格も何も全く違うんですけれども、でもね、それぐらいのデタラメさとハズミがなかったら、また、もっと月並みにこの町はこんなもんだぐらいのことしかしなかったら、100万都市は100万都市、1万は1万、そういう序列ができてしまうだけじゃないの、っていう気は、今でもしています。」
「結局、これが成功、これが失敗ってないんですよ。みんな、こう、重層的に重なっているんじゃないですかね。だから、成功と失敗っていうのは、条件設定によって変わるし、事象は一つであっても、どの価値観で見るかで成功か失敗かが決まるという、ただ、それだけのことだと思いますね。」
2014年12月、セーラさんにもお話を伺った
小布施で開催する第3回2014年度COREZOコレゾ賞表彰式の準備をしていたところに、セーラさんから山田脩二さんに連絡があり、一緒に小布施でお目に掛かることができた。
2014年12月当時、すでに小布施堂から株式会社文化事業部を分離して独立し、長野県長野市若穂保科という小さな集落で農業を通じたコミュニティづくりを新しいミッションとして取り組んでおられるとのことだった。
どうして農業なのかと尋ねると、農業は、文化の根っこであり、その根っこを掘り下げる活動やコミュニティづくりを通じて、日本全国の志を同じくする人たちとネットワーク化することで、日本の農村の風景やそこに根付いた文化を残していきたい、とのことだった。
参考
https://www.facebook.com/bunkajigyobu/timeline
まとめ
セーラさんは、その着眼点、斬新な発想、ネーミングの妙、類稀な行動力や情報発信力で、小布施のひとつの時代をつくる原動力となられたのは間違いないと思うが、その才能を見抜いて、小布施堂でワラジを脱ぐのを認め、スポンサーになって後押しをした市村社長と出会っていなかったら、セーラさんの素晴らしい発想力や実行力も花開いていなかったかもしれない。
セーラさんが小布施で活躍されるきっかけになったのが市村社長や市村町長が取り組まれた『小布施町町並み修景事業』だった、というのも単なる偶然ではなかったような気がする。
それにしても、小布施の旦那文化を支えてこられた血筋なのか、雇い主だった市村社長の懐の深さも器の大きさも並みの人物とはスケールが違う。
セーラさんがすでに新天地で新たな道を歩み始めておられる一方で、小布施でも、セーラさんが去った後、すでに次の世代の新しい動きが始まっていて、それら全てが有機的につながっているようにも感じる。
それは、市村社長の以下の言葉に集約されていて、その根本は、『小布施町町並み修景事業』のコンセプトに通じているようだ。
一旦、いい情報を持った人が『集まる』ようになると、情報が一人歩きを始めて、今度は、いい情報を求めて、人が『集まる』ようになります。いい方に廻り始める訳です。更に、いい情報を求めて、色々な人が集まってくるんですね。実はね、観光っていうのも情報なんですよ。
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COREZO (コレゾ)賞 事務局
初稿;2015.05.14.
編集更新;2015.05.14.
文責;平野龍平
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