大宮 透(おおみや とおる)さん

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COREZO(コレゾ)「長野県小布施を拠点に、地域で働き、暮らす人たちと外部の支援者が協働して地域課題の本質的解決を目指す活動を続け、地方から日本の再生を仕掛けるへうげた知恵者」賞

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大宮 透(おおみや とおる)さん

プロフィール

長野県小布施町

慶應SDM・小布施町ソーシャルデザインセンター 研究員

地域活性化伝道師

ジャンル

まちづくり

研究員

経歴・実績

1988年、山形県山形市生まれ、群馬県高崎市で育つ

東京大学工学部都市工学科を経て、東京大学大学院工学系研究科卒(工学修士)

2009年、日米学生会議で小布施に訪れる

2011年、震災直後の被災地で復興支援のボランティア活動に取り組み、地域住民との協働をベースに複数のまちづくり活動に携わる

2012年、第一回小布施若者会議の立ち上げに参画。終了後、町役場内に設置された法政大学・ 小布施町地域創造研究所(現「慶應SDM・小布施町ソーシャルデザインセンター」)の研究員として活動を開始、小布施に拠点を移す

2013年、第2回小布施若者会議の実行委員長や高校生を対象にしたサマースクールプログラムの開催など、若者を対象にした人材育成プロジェクトを企画運営

2014年度からは、高齢化する 町内自治会の未来構想に向けた「地域の未来づくりプロジェクト」をスタート

受賞者のご紹介

大宮 透(おおみや とおる)さんは、長野県小布施町で開催した2014年度第3回COREZOコレゾ賞表彰式を手伝って下さったのがご縁で知り合った。

一見、今風の若者であるが、小布施堂さんが経営しておられる蔵部で、偶々お目に掛かって、少し話をしただけなのだが、こちらのやりたいことを察知して、翌日のまちづくりフォーラムに関してもほぼ完璧に仕切って下さった。この方はタダ者ではない、と思い知ったのだが、実は、泣く子も笑う、かのTK大学院卒の理系才人だったのだ。

で、日を改めてお目に掛かる機会を作って頂いた。大宮さんが研究員を務めておられる「慶應SDM・小布施町ソーシャルデザインセンター」は、何と小布施町長室の隣にあり、その両部屋に面しているミーティングルームでお話を伺った。

日米学生会議が小布施とのご縁のきっかけ

ー小布施とご縁ができたのは?

「大学3年生の夏に70年ぐらい続いている日米の学生の相互理解を目的にした日米学生会議というのがあって、日米で交互に開催されているのですが、日本中、米国中を廻って議論をしながら、その成果を発表するというプログラムに参加しました。」

「その年は、東京、函館、長野、京都で1週間ずつの開催で、長野での2泊3日間は、小布施でホームステイをして、最終日にまちづくりのフォーラムが開催され、僕の専門が都市計画だったので、指名を受けて、パネリストとして意見を発表したところ、町長に気に入られたのか、何かおもしろいことを一緒にやろうよ、と声を掛けて頂いたのがきっかけです。」

小布施での経験から生まれたテーマ

「次の年、大学4年の時には、米国開催の日米学生会議に今度は実行委員として関わったのですが、その時、米国のパートナーと作った分科会が、小布施での経験を踏まえた『持続可能な地域再生』というテーマでした。」

―「持続可能な地域再生」というのは具体的にどんな議論になりましたか?

「僕は、会議の運営の方に掛かりきりだったので、実際の議論には参加できなかったのですが、開催地のひとつがハリケーンカトリーナで大災害のあったニューオーリンズだったので、実態調査を通じて、持続可能な地域復活や再生をするにはどうしたらいいのかを議論して、提案しようということになりました。」

「その当時、カトリーナの大災害からちょうど3年が経過していたのですが、民間のNPOやNGOがたくさん入って復興支援をしていても、それをマネージメントすべき行政が機能していない状況が見えてきました。最終的には行政がこうすべきだ、という提案になったのですが、日本でも東日本大震災が起こった時に、あれだけ広範囲に被害を受けると行政が機能しなくなるというのを実感して、行政の問題だけではなかった、と今は反省しています。」

東日本大震災が起こって…

―その後、大学院に進まれたのですか?

「ええ、2011年に院に進んだのですが、その年の3月に大震災が起こり、入学式が5月に延びて、先生と一緒に陸前高田に行き、そのままずっといたので、被災地で院生生活を過ごすことになりました。」

「実は、大学院卒業後の進路をはっきりとは決めていなかったんですよ。正確に言うと、いくつかやろうかなと思っていたことはありました。ひとつは、地元で空き家のマッチングをするNPOを立ち上げて、国から大きな補助金を取れそうだったので、本格的に取り組もうと思っていました。また、先生になりたかったんで、博士課程に進もうとも思っていました。」

「震災の後に、調査やヒヤリングを行ったことから、地元のお母さんたちとコミュニティ・カフェを始めることになり、2012年の1月にオープンして、それから3ヶ月間つきっきりであれもこれもとやっていて、ハッと気づいたら、4月か5月になっていて、就職活動のタイミングを逃してしまいました。」

小布施方式の中のアリジゴクパタン

「どうしようかなと思っていたら、小布施町長から電話がかかってきて、小布施若者会議を一緒にやんないか、って云われて、迷っているうちに、お手伝いできるなら、といろんなことに手を出していたら、小布施方式の中のアリジゴクパタンにハマってしまって、こうなっちゃいました、ハハハハ。」

 小布施若者会議

―小布施若者会議はどなたの発想ですか?

「最初は、市村小布施町長でしたね。全国から思いと実行力のある若者が集まり、地方や日本のこれからを自由に議論したり、行動するための環境を小布施が用意し、そこから新しい価値観や具体的な行動が生まれ、日本全体に広がっていくようなきっかけの場にしたい、という町長が抱いた想いがベースとなって、2012年に第一回がスタートし、その想いに共感したメンバーによって毎年引き継がれ、2015年で4年目の開催を迎えます。」

「毎年、少しづつ進化していて、今年は、『地方創生のモデルとなる事業をつくる』ことがゴールで、地域と企業、若者が協働して、未来の地方や日本にとってのモデルとなる事業を構想し、そのプロトタイプ(試作版)を、小布施を舞台に実現していくことを目指しています。」

小布施若者会議に関わるきっかけ

―大宮さんが若者会議に関わるきっかけは?

「2010年10月、日米学生会議が終わって、報告書を作り、小布施を訪問した時に発想した『持続可能な地域再生』分科会を米国でやってきました、というメールを町長に送ったところ、返信が来て、フォーラムを含めた小布施での3日間で触れた新鮮な発想とかに私自身が一番刺激を受けて、世界中から若者が集まるダボス会議のようなものを小布施で自主開催したいのだが、大宮君は社会人になっているだろうから、時が来れば、是非、手伝って欲しい、というような内容でした。何だか嬉しくて、そのメールは今でも残しています。」

「その後、2011年になってからは、ずっと被災地だったし、年が明けると、大学院の試験と卒論作成に追われて、全く時間に余裕がなかったのですが、2012年2月頃には、コミュニティ・カフェの方も落ち着いてきて、東京へも戻れるようになったタイミングで、たまたま、町長から、東京で飲んでいるので来ないか、という電話をもらったので、喜んで出かけました。」

「若者会議を今年の9月に本格的にやることになったので、1ヵ月に1回ぐらいアドバイザーでいいから、大宮君どうだい?って軽い感じで云われて、1ヵ月に1回、小布施に行けるならいいか、って思って引き受けたのが運の尽きで、3月に行ってみたら、何も決まっていない。それで、変な責任感にスイッチが入っちゃって、提案書を出したら、どんどん決まって行って、ヤバい、逃げられないゾ、っていう、さっき、お話したアリジゴク状態にハマってしまいました。」

「でも、ヤバいなという反面、提案したものが認めてもらえて嬉しいな、巻き込まれるのも悪くないな、という感覚もあって、だんだん、自分の居場所になって行ったんでしょうね。」

「行政のお金を使って、大学生がリードして、町民も巻き込んで、文句はいうけど、温かく見守ってもらいながら、一緒にやってくれるというこの状況は、一体何だ?やっぱり小布施はスゲーな、って…。関われたのは、おもしろかったし、嬉しかったですね。1ヶ月に1回だったのが、2週間に1回とかになって行ったって感じですね。」

「若者会議に関わるまでは、小布施の若者との接点がなかったのですが、ヒデさんや英寿さんの他、新しい小布施の人たちとのつながりができて、それもおもしろかったですね。」

都市工学から見た小布施の魅力

―専門は都市計画ですか?

「専攻は、都市工学でした。建築のような、小さなスケールではなく、都市規模の交通計画や広場のデザイン、さらに都市に関わる政策的な部分など、とても幅広い分野に及びます。」

「その中の都市計画というのは、普通、もっと大きな中核都市とかが対象で、自分も群馬の高崎で育ったので、小布施のような人口1万ほどの町や農村の感覚がよくわからなかったのですが、来てみると、とても先進的な取り組みをしているし、住民の皆さんがとても温かくて、その時は、3日間しかいなかったのに、ホームステイ先の皆さんとも親しくなって、小布施がすごく好きになってしまいました。」

「僕は、デザインをやりたくって入ったのですが、都市問題を解決するための政策立案、市民参加型の都市計画を提唱する先生に師事したので、その影響もあってか、行政からの一方通行ではなく、市民と一緒に議論し、解決策を練って決めていくプロセスの方に興味を持つようになり、卒論も市民参加型の都市計画をテーマにしました。」

「そういう視点からも、小布施って、行政主導になりがちな案件にも民間の事業者や住民が関わる機会が多く、それぞれが独立してやりながらも、時々、話し合って、景観もそうですが、なんとなく足並みをそろえているようなところもおもしろいし、素敵だな、って思います。」

「実際、日米学生会議に参加した学生の内、95%が日本で最も印象深かったのは小布施だった、というアンケート結果が出て、自分だけじゃなく、皆んな、この町すごい、何か違う、って感じていたんだなぁ、って。小布施という町から日本の地域が再生できる可能性のようなものを感じました。」

「民間と行政がタッグを組んで道路のデザインを統一するとか、いろんなセクターを越えて整備した栗の小径とかがすごく印象に残っていて、小さな町だからこそできたのかもしれない、とも思いました。」

―大宮さんが学ばれた学部からはどのような進路が多いのですか?

「官僚、コンサル、ゼネコン、ディベロッパー、何故か、銀行も多くて、後は大学院ですね。」

祭りの後の寂しさからさらに火が付いた

―そんな中、小布施に来ることを選ばれたのは?

「正直な話、就職活動もしていなくて、なんとなくこのまま就職するのも違うな、あれも違うな、ってダラダラ考えていたんですよ。」

「小布施若者会議のときは最高潮に盛り上がったのに、やり終わった途端、実行委員のメンバーが一斉にいなくなったんです。若者会議で町民をはじめ多くの人が感動した提案には、『行政が全面的にバックアップします』と言いながら、役場の職員も小布施若者会議を開くだけで精いっぱいで、何も起こらなかったんですよ。」

「で、僕ひとりになって、でも、そこからワクワクしていたというか、まだ、何かやりたい、って気持ちが燻ぶっていたんですね。明日、朝起きても、やりたいという気持ちだったら、やっちゃうか、という感じでした。」

「僕らは、震災前後で就職活動や就職をしている世代なので、周りの友人たちと話していても、こんな状況なのに、自分はただ普通に働いていていいのか、みたいなところがあって、特に僕なんかは、復興支援活動のど真ん中で1年半ぐらい過ごしてきたので、そういう想いが強かったのかもしれません。」

 おもしろい流れ、先進的な取り組みに発展していく可能性

「行政と民間が一緒にワイワイやって、何か新しいものを創り出そうとしている動きがあるのに、それを潰したくないし、熱のようなものを絶やしたくないし、この動きが日本の他の地域にとってもおもしろい流れ、先進的な取り組みに発展していく可能性があるんじゃないか、って考えると、すごいパワーが湧いてきたんですよ。」

「次の日には30個ぐらい提案書を書いて、町長に持って行ったら、その中のいくつかはおもしろいからやりたいね、これホントにやるなら2年ぐらいは腹を括ってここで腰を落ち着けてやるしかないよね、って云われて、就職先も決まっているわけじゃないし、2年ぐらいだったら別にいいかな、って気持ちにすーっとなれました。それは、おもしろいことができていて、何か新しい未来を創るって感覚があったからだと思います。」

謝金扱いの研究員からこんなものかで仕事が始まった

「その時は、共感してくれたのは町長だけだったのですが、学生時代にバイトした貯えも少々あったし、町長ももし食えなくなったらウチに来ればいいから、って云ってくれたんで、ノコノコやってきたものの、今からやろうという仕事をやったことがないから、どうしたら仕事になるのかもわからない。で、自分の目標を明確にして、それを達成するために、2年間でやることを具体的に書いて、1ヵ月、これぐらい下さいという要求書を出したら、いいよ、って、契約ってこんなもんなのか、と思いながら、迷いもなくなって、どんどんやっていったって感じですね。」

―では、院生の頃に小布施に移住されたのですか?

「よく覚えていないのですが、大学院の2年目の2012年10月頃には、これはこちらに来るしかないんじゃないかという錯覚にとらわれていて、その年の11月か12月頃には、こちらに来て、そこら辺で寝泊まりしながら、居候先を探していた、って感じですね。」

「そうなると、論文も何もできなくなって、1年間休学して、次の年に卒業したんですよ。」

―どのような契約だったのですか?

「契約は、議会を通したり、何かと面倒なので、当初は、謝金扱いでした。それまでに論文を4本と本も書いていたので、当時、役場内にあった法政大学・小布施町地域創造研究所の研究員という肩書はもらえました。」

いろんなプロジェクトを実現するための月1シャトルバス

―法政から慶應に替わりましたよね?

「ええ、町長から大宮君の好きなようにやりなさい、と云ってもらって、僕は都市工学系なので、ITやソーシャル系のところと組んだ方が幅も広がるだろうと思ったので、慶應SDM(システムデザイン・マネジメント研究科)に町長と行って、名前を貸してもらい、学生や先生に協力してもらえることになりました。」

「小布施の地域をフィールドに大学のコンソーシアムを創りたくて、いろんなプロジェクト毎に、いろんな大学に協力をしてもらっています。」

「若者会議終了後、小布施に移って来てから最初に取り組んだのは、若者会議で出てきたいろんなアイデアをその人たちの熱のあるうちにしっかり町の人と組み合わせて実現してもらえるように、こういうことをやりたいなら、こういう人がいるよ、っていうようなマッチングをずっとやっていました。」

「若者会議の予算が残っていたので、若者会議で出てきたアイデアを本当に実現したい人が集まって、町長を囲んでのプレゼン大会のようなものを開催しました。その場で即決してもらったので、実際に動き出すプロジェクトがたくさん出てきました。」

「いろんなプロジェクトを実現するために、東京から小布施へ往復する月1シャトルバスを運行しました。それを利用して来た人を小布施の人たちに引き合わせるとまた新しい発想が生まれたり、その都度、プロジェクトが拡がりました。」

小布施のおもしろい人から学ぶツアー

―実際にはどのようなプロジェクトが?

「企業研修を小布施で実施する『小布施ラボ』をやることになり、それなら、月1シャトルバスと抱き合わせで、プログラムを作るところから始めようということになって、『小布施のおもしろい人から学ぶツアー』が始まりました。」

「それがおもしろいと評判になったので、小布施は人がコンテンツなんだ、というのをすごく実感するきっかけになりました。」

―例えば、どんなツアーですか?

「若い人が農家さんで農家体験しようというツアーをやりました。それを実施したところ、オーナー制度でこんなのをやろうというアイデアが出てきました。場をつくるといろいろなアイデアが生まれるんですよね。場づくりとか、何かと何かをつなぐ提案が多かったのですが、それは、僕らの世代の特徴というか、一種の流行りなんですね。」

Japan Obuse Committee

「残念だったのは、しくみづくりの提案が少なくて、それが実現できなかった事ですね。ボランタリーで関わっている人は、余った時間を使ってやるわけで、そうなるとイベントとか、そういったものしかできなくて、本当の意味で地域を変える仕組みっていうのは、根を下ろして担い手にならないとダメなんだな、とつくづく感じましたね。」

「それでも、若者会議後の月1シャトルに乗って小布施にやってきたメンバーたちがコミュニティ化していって、ある人が、『JOCの理事』って言いたいよね、って言い出したことから、Japan Obuse Committeeっていう組織を立ち上げて、『渋谷で小布施を喰らい尽くす会』なんかを主催して東京の人たちと交流しましたし、理事会だから、って東京に行く大義名分にもしていました。」

 第二町民制度

「実は、『第二町民制度』というアイデアにも予算が付く事になっていたのですが、事情があって、提案者が辞退してしまいました。その第二町民制度という発想がおもしろかったので、なんとか事業として実現したかった。でも、納税してもらうとか、お金儲けにつなげようとは思いませんでした。」

「それが議論だけで1年も過ぎてしまったので、補助金取ってきて、後戻りできなくしておいて、『小布施のおもしろい人から学ぶツアー』を『第二町民ツアー』という形に進化させ、定住のための第1段階として、2015年の1月からスタートしました。外部の人たちが小布施に関わり易くして、人が交流するきっかけの仕組みづくりでもあります。」

第二町民ツアー

―どのようなツアーですか?

「小布施町の人と巡るディープな町を知るツアーです。そんな第二町民ツアーを毎月2回やっているのですが、そのツアーに参加すれば、第二町民カードが発行されて、第二町民になれます。5回参加すると、紙製からプラスチック製のカードにグレードアップして、小布施交流大使の名誉が与えられ、町内バス無料、シェアハウス宿泊割引やシェアカー使用権等の特典も付与されます。」

「例えば、先月はヒデさんで、『小布施の遊び人と巡る北信州の遊び方』というツアーでした。小布施は小布施だけでなくて、小布施に住むということは、北志賀、志賀高原なんかも含めて、クルマで30分程度で行けるところは、全部、小布施なんだ、というヒデさん論理でフィッシングや企画中のサバイバルゲームを無料で楽しんでもらいました。小布施には、ヒデさんのような遊び人もいて、こんな楽しみ方もあるんだ、という事も知ってもらえたんじゃないかと思います。」

「それから、『りんご農家さんと第二町民のりんごの木をつくろう』というツアーもやりました。りんごの摘果作業をして、その木から収穫する作業も体験してもらいます。オーナー制度のプロトタイプのようなものですね。」

「毎月2回なので、既に10回実施していて、定員は10人で十分コミュニケーションが図れるサイズで、毎回ほぼ満員です。現地集合現地解散、ガイドはボランティアが基本で、旅行業法もいろいろ調べて、かなりグレーですが、収益事業としてやっていないので、参加者ご自身にそれぞれの箇所へ実費を払って頂いています。」

「告知は、まだWebサイトやフェイスブックでしかやっていないのですが、継続する方が大事だし、基本的には、人の繋がりで広げていきたいと思っています。今後は、旅行業法をどうクリアするかが課題ですね。」

 選択と集中をして、事業化する仕組みをつくるフェーズに

―これから大宮さんのやりたいことは?

「僕が来た2012年には小布施に若者、それも限られた若者が来るのは『オブセッション』ぐらいしかありませんでした。ニーズとニーズをマッチングして、少し強引なところもありましたが、立ち上げたいろんなプロジェクトを通じて、毎週、若者が来る流れはできました。」

「初めは、数を多くするといろんなことが起って活気付きますが、それが何年か続くと、選択と集中の段階に入ります。」

「今、僕の研究所だけでも20ぐらいのプロジェクトが動いています。自分で稼げる仕事を創る必要に迫られていたので、いろんな取り組みを仕掛けてきた結果、小布施だけでなく、他の地域や企業からの依頼も増えていて、受け切れない有難い状況になっています。これからは、選択と集中をして、事業化する仕組みをつくるフェーズに入ったと感じています。」

「小布施は、京都のように広範囲にたくさんあるというわけではありませんが、コンパクトで面積は狭いけれど、文化的なコンテンツがたくさんあり、町並みが綺麗でお茶をしたり、食事ができる場所もあります。」

日本や地方のモデルになる取り組み

「元々、地方の取り組みは、他所への展開や波及効果に乏しくて、地域の中で完結してしまうような凡庸な発想が多いのですが、ここでは、プロジェクト毎に外の力や流れも導入してきたので、2020年や2025年に小布施がどうなりたいのか、これまでの取り組みから、どんなビジョンを描いてどう実現するか、いくつか見えてきています。今後は、小布施だけに留まらず、日本や地方のモデルになる取り組みになるようにしたい、地域と地域外の人も含めて、少数精鋭で、一緒にそれを実現したいと思っています。」

古くから市が立ち、町外の人々との交流に親しんできた小布施には、昔ながらの文化と町並みを守りながらも、「よそもの」を積極的に受け入れる風土が根付いているそうだ。

大宮さんが小布施にやってきたことで、「町民」、「よそ者」、「行政」が価値観を共有しながら、うまく恊働できるように人と人をつなぐという、「小布施方式」がより機能し、定着してきているように感じる。

大宮さんのような若者を惹きつけた小布施の町の魅力も凄いし、夢を託した町長も凄いと思う。地方の小さな町から、常に新しい価値を創造し、持続可能なこれからの地方や日本のあり方を示して頂きたい。

COREZO「長野県小布施を拠点に、地域で働き、暮らす人たちと外部の支援者が協働して地域課題の本質的解決を目指す活動を続け、地方から日本の再生を仕掛けるへうげた知恵者」である。

大宮 透(おおみや とおる)さんに関するお問い合わせは

メールで、info@corezo.net まで

※本サイトに掲載している以外の受賞者の連絡先、住所他、個人情報や個人的なお問い合わせには、一切、返答致しません。

COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿;2015.11.25.

最終取材;2015.11.

最終更新;2015.11.25.

文責;平野 龍平

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