目次
COREZOコレゾ「正保2(1645)年創業以来、岡崎城から西へ八丁の地で味噌造り一筋 「八丁味噌」の伝統製法と品質を頑なに守り、可能性を追求して 地域と日本の文化を伝え続ける十九代当主」賞
早川 久右衛門(はやかわ きゅうえもん) さん/カクキュー/八丁味噌
プロフィール
愛知県岡崎市
合資会社八丁味噌 代表社員
株式会社カクキュー八丁味噌 代表取締役
合資会社八丁味噌
正保2(1645)年 創業
昭和56(1981)年 合資会社八丁味噌に社名変更
平成3(1991)年12月 史料館を開設
平成5(1993)年4月 売店を新設
平成8(1996)年12月 本社屋と史料館が国の登録有形文化財に登録される
平成17(2005)年11月~ NHK朝の連続テレビ小説「純情きらり」のロケ地となる
平成29(2017)年フードコート「岡崎カクキュー八丁村」を新設
八丁味噌
八丁味噌の由来
「八丁村」の地名に由来しており、嘉永5(1852)年に江戸の役人が書いた「三河美やけ(三河みやげ)」に名物としてカクキューの「八丁味噌」が紹介され、これより、幕末には「八丁味噌」の名はかなり広い範囲に知られていたと云う。
日本の多くの地域でつくられているのは、大豆と米、塩、水を原料に仕込む米味噌だが、八丁味噌は、米を使わず、大豆と塩、水のみで仕込む豆味噌に分類され、豆味噌がつくられているのは、愛知、岐阜、三重の東海3県下の一部に限られる。
八丁味噌の製法と特徴
八丁味噌は、大豆と塩のみを原料に握り拳ほどの大きさの味噌玉をつくって、大きな木桶(約 6 トン仕込める大きさ)に仕込み、天然の川石を職人の手で円錐状の山のように積み上げて重石(約 3 トン)とし、この八丁町(旧・八丁村)の気候風土のなかで二夏二冬(2年以上)天然醸造(機械的な温度調整は行わない)で熟成させて出来上がる。
味は、大豆のうま味を凝縮した濃厚なコクと少々の酸味、渋味のある独特な風味が特徴。
八丁味噌の高い品質と保存性
水分の少ない八丁味噌は、保存性が高く、明治44年(1911)、ドイツ・ドレスデン万国衛生博覧会に出品されたカクキューの八丁味噌は、当時、日本から赤道直下のインド洋を航行する一ヶ月余りの長い船旅にも関わらず、その品質には何の異常もなく、高い評価を受けた。
この品質保存性の高さから、太平洋戦争時、南方戦線での兵員の食糧の他、昭和30(1955)年、マナスル登山隊の携行食品、昭和31(1956)から昭和37(1962)年まで、南極地域学術観測隊の携行食品として毎回採用された。
また、その品質の高さから、明治34(1901)年から昭和26(1951)年3月31日まで、「宮内省(庁)御用達」(1954年に廃止)の許可を得、58年間、天皇の料理番を務められた秋山徳蔵氏の著書「秋山徳蔵選集第二巻」で紹介いただいたそうである。
カクキュー
カクキューの由来
カクキューの創業は江戸時代初期だが、その歴史は戦国時代まで遡り、今川義元の家臣であった早川家の先祖・早川新六郎勝久(はやかわ しんろくろうかつひさ)は、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで今川が敗れた後、岡崎の寺へと逃れて武士をやめ、名を久右衛門(きゅうえもん)と改めた。
久右衛門は、寺で味噌造りを学び、数代の後、徳川家康公生誕の岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離にある八丁村(現在の愛知県岡崎市八丁町)へと移り、正保2(1645)年に業として味噌造りを始めた。
カクキューの当主は代々「早川久右衛門」を襲名しており、名前の「久」の字を四角で囲んだマークが誕生し、そのマークから「角久(カクキュー)」の屋号が誕生したとのこと。
八丁村の風土が生んだ八丁味噌
八丁村の近くを流れる矢作川の上流は花崗岩質で、そこから流れてくる水は清浄で豊富、伏流水は夏も冷たく、味噌造りに最適で、また、八丁村には慶長6(1601)年に東海道が通り、矢作川と交わる交通の要所でした。そのため原料である大豆や塩、造り上げた味噌の運搬に適していると同時に、東海道を行き交う旅人が訪れるため、味噌造りとともに商売にも適した土地だった。
一方で、八丁村は矢作川や菅生川(乙川)、早川など多くの川に挟まれた高温多湿な土地であり、食べ物が腐りやすい環境だったため、このような環境にも耐えられるように仕込み水を極限まで少なくするなど、先人が試行錯誤、努力し、固い味噌になった。
カクキュー存亡の危機
正保2(1645)年創業のカクキューは、明治初め、急速にインフレが進行し、大豆の価格は、安政5(1858)年と比して、明治元(1868)年には、4.5倍、翌年には、6倍まで高騰し、買い入れもままならず、味噌の生産量も大幅に減少し、存亡の危機にさらされた。
明治25(1892)年、宮内省への納入を開始し、明治34(1901)年に念願の御用達の許可を得たことが励みとなり、日清・日露戦争後の日本経済の拡大と云う背景もあって、飛躍的な成長への転機となった。
大正9(1920)年前後には、第一次世界大戦後の好景気とその反動からの不況が味噌業界にも及んだが、その苦境も乗り切り、大正12(1923)年には不況前以上の業績を上げた。
カクキュー休業宣言
昭和になり、日中戦争は長期化の様相を呈し、昭和15(1940)年、戦時統制下、味噌も価格統制を受け、その上限価格が製造原価を下回っていたため、同業の「まるや」さんと共に、「休業宣言」を出すに至り、昭和25(1950)年の解除まで製造休止と云う創業以来最大の危機が続いた。
そんな中、宮内省から「八丁味噌と云う文化遺産の製造技術を絶やしてはならない」と、少量ながら従来と同質の大豆を入手できて、ささやかながら八丁味噌をつくり続ける機会が与えられた。
早川 純次(現、久右衛門)さん誕生
統制解除で製造を再開した、昭和25(1950)年、早川 純次(現、久右衛門)さんは、早川家の三男坊として誕生された。
2人のお兄さんが若くして亡くなられたため、子供の頃から、「あなたが跡を継ぐのだよ」と育てられてきたので、「そういうものなのだ」と思ってこられたそうで、大学卒業後、食品問屋で修行をした後、合資会社八丁味噌に入社した。
いざ働き始めると、「カクキューは殿様商売」と云われるような古い体質があったので、挨拶、掃除は率先してやり、平成5(1993)年、社長就任後は、工場の改善活動の基本である、「整理」、「整頓」、「清掃」、「清潔」、「躾」の定着を推進する「5S 活動」を開始した。また、個人の力量と手作業に頼っていた受注業務にコンピューターシステムを導入し、効率化を計った。
産業観光への取り組み
当初、お客様のご要望に応じて随時案内していた工場見学だったが、昭和57(1982)年、岡崎公園内に歴史博物館が開館し、翌年、NHK大河ドラマ「徳川家康」が放映されたことで、空前の家康ブームが到来して、岡崎城に訪れた多くの大型バスがカクキューにも来るようになった。
幸い、カクキューの敷地は戦災に遭わず、歴史的な建物や道具類、資料がたくさん残されていたので、貴重な歴史遺産を多くの人に伝えたい、と云う思いから、周囲の反対を押し切り、平成3(1991)年、史料館をオープン、さらに、1993年には、売店をオープンし、産業観光に本格的に取り組み始めた。
平成17(2005)年、中部国際空港セントレアの開港、愛知万博の開催で中部地方に注目が集まる中、平成18(2006)年、カクキューの味噌蔵がロケ地の一つとなった、NHK朝の連続テレビ小説「純情きらり」が放送され、その年の年間来場者数は過去最高の35万人となった。
1日最大、大型バス88台、3,524人もの想定を超える見学者が訪れため、対応が追いつかず、苦情が出るほどの大混雑となり、本格的に取り組んできた産業観光の成果が現れた反面、反省、改善にも取り組む必要が生じた。
十九代 早川 久右衛門 襲名
2005年11月、18代が89歳で生涯を閉じられ、2006年10月、19代「早川 久右衛門」を襲名された。
「早川 久右衛門」を襲名するには、家庭裁判所での手続きが必要で、代々襲名している事実を証明することができたので、許可を得た、とおっしゃっていることから、戸籍上の改名をされたのだろう。
農林水産省 地理的表示(GI)保護制度
「地理的表示保護制度」は、その地域ならではの自然的、人文的、社会的な要因の中で育まれてきた品質、社会的評価等の特性を有する産品の名称を、地域の知的財産として保護する制度です。
ビジネスにおいては、その地域ならではの要因と結び付いた品質、製法、評判、ものがたりといった、産品の強みや魅力が見える化され、国による登録やGIマークと相まって、効果的・効率的なアピール、取引における説明や証明、需要者の信頼の獲得を容易にするツールになります。
農林水産省は、本制度によって、国内外における模倣品対策によりGI産品の名称・ブランドを保護するとともに、GIマークという統一ロゴの下、成功事例の横展開、市場展開を通じ、GIそのものの認知を高め、「GIブランド」を確立してまいります。
神戸ビーフや市田柿など、地域には長年培われた特別の生産方法や気候・風土・土壌などの生産地の特性により、高い品質や評価を獲得するに至った産品が多く存在します。これらの産品のうち、品質や社会的評価など確立した特性が産地と結び付いている産品について、その名称を知的財産として保護する制度が「地理的表示(GI:Geographical Indication)保護制度」です。
岡崎市八帖町は、愛知県であるが、岡崎市八帖町つくられてきたから、八丁味噌と呼ばれるようになったのであって、愛知県でつくられたから、八丁味噌と呼ばれるようになったのではない。
地域との結びつき
愛知県は高温多湿な気候であり、製麹過程で腐敗しやすい自然条件の下で、天保、弘化、嘉永頃(約200年前)には、塩と大豆を用いて安全に味噌作りができる味噌玉作り製法が定着した。気温が高いことにより、熟成において大豆の分解が進みやすい。高温多湿な環境では、塩分・栄養価の高い味噌が好まれた。
八丁村は矢作川や菅生川(乙川)、早川など多くの川に挟まれた高温多湿な土地であり、食べ物が腐りやすい環境でした。そのため、このような環境にも耐えられるように仕込み水を極限まで少なくするなど、先人が努力し試行錯誤し、固い味噌になりました。
愛知県全域が「旧八丁村」と同じく「多くの川に挟まれた高温多湿な土地」なのか?と云う素朴な疑問が湧く。
「八丁味噌」の生産地である愛知県は、高温多湿な気候であり、味噌造りで重要な製麹過程で腐敗することが多く、安定した味噌造りができなかった。そこで、「八丁味噌」に関しては、高温多湿でも安全に麹造りができるように大豆だけで味噌玉を作って大豆に直接麹菌を付ける「味噌玉造り製法」が定着してきた歴史がある。加えて、「八丁味噌」の仕込後の熟成温度の高さは、大豆の分解が進み易く、うまみが強く、色が濃い特徴的な味噌ができる自然的な条件でもある。愛知県の高温多湿な気候により人は汗をかきやすく、発汗により不足する塩分や栄養価の高いタンパク質の補給を「八丁味噌」が担うことで、古くから人々の健康維持に役立ってきた。
「八丁味噌」は、他の地域の味噌(米味噌等)の主原料が米(又は麦)、大豆、食塩であるのに対し、大豆と食塩のみである点で明らかに異なる。「八丁味噌」は、赤褐色で色が濃く(概ねY値 3.0%以下)、適度な酸味があり(概ね pH は 4.8~5.2 程度)、うまみが強いだけでなく、苦渋味を有する独特な風味を持つ。
八丁村は矢作川や菅生川(乙川)、早川など多くの川に挟まれた高温多湿な土地であり、食べ物が腐りやすい環境でした。そのため、このような環境にも耐えられるように仕込み水を極限まで少なくするなど、先人が努力し試行錯誤し、固い味噌になりました。
八丁味噌は、水分が少なく固く保存性が高いことも特徴であるのに、GI八丁味噌には水分含有量の規定がない。
2020年度 第11回 COREZO賞表彰式「八丁味噌GI」問題
本家本元2社と農林水産省が登録した八丁味噌の違い
この似て非なる規格を同じだろうか? 八丁村(現、岡崎市八帖町)=愛知なのか?
本家本元2社は、自社の八丁味噌と農林水産省が登録した八丁味噌が同じだと認めない限り、八丁味噌」を名乗れなくなるそうで、伝統製法を守り続けることを最優先し、生産設備(味噌の仕込蔵)も限られているため、生産量や規模の拡大を図ることはできず、伝統製法により、手間も時間もかかるため、自ずと価格競争力のある商品にはなり得えない。
シャンパンの方が有名だから、違う製法でつくったスパークリングワインもシャンパンと名乗って売らせるようなもので、「生産業者の利益の保護を図ると同時に、需要者の利益を図る」とあるが、登録番号第49号に関しては、消費者には何の利益もなく、原材料欄に「八丁味噌」と表記することで利益を得る企業も多いのではないか?
八丁味噌GI 制度に関するこれまでの経緯
知財高裁の判断
知財高裁も「八丁味噌は愛知特産」 GI制度巡り、発祥岡崎の老舗敗訴
2023年3月8日、「八丁味噌(みそ)」の地理的表示(GI)保護制度を巡り、発祥の愛知県岡崎市の老舗「まるや八丁味噌」は、2017年に生産地を県全域とした国の登録取り消しを求めた訴訟の控訴審判決が8日、知財高裁であり、一審東京地裁と同様に「愛知県に定着し、特産品として認知されている」と判断し、同社の控訴が棄却された。
法の規定で、まるや側の提訴は定められた期限を超過したと指摘した。その上で「名古屋めしの代表的調味料として定着し、一般の豆みそと異なる『確立した特性』がある」と言及。まるや側は一定期間経過後に「八丁味噌」の名称をそのままでは使えなくなるが、「元祖八丁味噌」といった追加登録も可能だとして「権利制約が大きいとは言えない」と結論付けた。
これにより、ますます状況は厳しくなっているが、本家本元の2社は、長らく日本国内だけでなく、海外でも八丁味噌のPRを続けてきた結果、広く知られるようになったのである。八帖町以外の味噌メーカーがその知名度の高い名称を使いたいと云う思惑がはっきり見えるが、努力をしてきた本家本元の2社には一定の敬意を払うべきではないか?
「八丁味噌」の伝統製法でつくっていない味噌が「八丁味噌」を名乗って、本家本元が「元祖八丁味噌」といった名称を名乗れたとしても、「八丁味噌」を名乗れないこと自体、地域ブランドを保護する制度の意味を成していないし、消費者の混乱を招くことになる。
「愛知県味噌溜醤油工業協同組合(組合員39社)」には、COREZO賞を受賞してくださった豆味噌の醸造蔵さんも加盟されているが、1社も自社商品に「八丁味噌」の名称は使っておられない。それは、消費者に「正直なものづくり」をしておられる皆さんは、自社の「豆味噌」に誇りを持っておられるのはもちろん、他社の製品にも敬意を払っておられるからだろう。
カクキューとまるや八丁味噌さんが守ってきた伝統製法でつくっておられるからこそ、八丁味噌独特の渋味、酸味を特徴としたコクの強い味噌ができるが、2社で決めた同様の伝統製法でつくっていても、2社の八丁味噌の風味は異なる。なのに、製法自体が異なれば、さらに風味が異なるのは当然のことだが、農水の評価委員会?では同等の風味と品質と決め付けたそうだ。
実際、「たまりや山川醸造」さんでは、FRP製のタンクで木桶と全く同じ原料、製法、熟成期間で仕込んでも同じ「たまり」はできず、取引先からも全く別物と云われ、全量木桶で作り続けることを決意した、とおっしゃっている。
おそらく、2社の顧客が2社以外の味噌を選ぶことはないだろうが、伝統製法の八丁味噌を求める消費者の皆さんが戸惑わないような表示も含めて差別化をしていく必要がある。
元来、日本のものづくりは、消費者に「正直なものづくり」だったはずである。それこそが海外の皆さんにも知っていただきたい日本のものづくりの精神であり、「正直なものづくり」をしておられる企業こそ、しっかり守るべきではないか?
できない国に期待するより、ひとりひとりの消費者が実行すれば済むことで、風味も含めて、ホンモノを知れば、モノ選びのスマートな物差しになる。
今後のカクキュー
令和3(2018)年8月3日、「八丁味噌の日」に刊行された「カクキュー八丁味噌の今昔」を拝読した。
カクキューさんの敷地内には、500本近い味噌仕込桶が並んでいて壮観だ。
地域の伝統文化を守るため、毎年、仕込桶を新調すると同時に、古い木桶には、カクキュー独特の微生物が棲みつき、特有の風味を醸し出していると考え、かつては、その微生物を「ご先祖様」呼んでいたそうで、古い木桶も大事に使い続けておられる。
最も古い天保15(1844)年につくられた木桶も現役で活躍しているそうだ。
20代候補の早川昌吾さんから伺った通り、創業以来、380年近くの間には、明治維新や恐慌、動乱、先の大戦では戦時下の価格統制により「八丁味噌」を造り続ける事ができず、休業宣言をされたこともあって、多くの困難、存亡の危機を乗り越え、八丁味噌づくりを続けてこられた。
十九代早川久右衛門さんは、学生の頃、食生活の乱れから体調を崩したが、昔からつくり続けられ、食べ続けられてきた食の大切さを身をもって感じ、カクキューの当主としての考え方を正しい方向に導いてくれたきっかけであり、必然だった。会社の利益だけを追求していては、決して伝統を守り続けることはできず、計り知れない苦労を伴うが、「この家・この会社を選んで生まれてきた」のであり、「味噌づくりは、それぞれの地域で生まれ、固有の風土に育てられてきた日本の文化そのものであり、伝統の八丁味噌をつくり続けることは、かけがえのない日本文化を守ることでもある」と、「早川久右衛門」の名に恥じぬよう、お客様、従業員、ご先祖様、八丁味噌を育む麹菌たちに感謝して、味噌文化に貢献してゆきたい、とおっしゃる。
COREZOコレゾ「正保2年創業以来、岡崎城から西へ八丁の地で味噌造り一筋 『八丁味噌』の伝統製法と品質を頑なに守り、その可能性を追求して 地域と日本の文化を伝え続ける十九代当主」賞である。
動画取材;2020.11.
初稿;2020.11.
修正稿;2023.11.
文責;平野 龍平
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