山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房

COREZOコレゾ「カメラマンからカワラマンに転身、いぶし瓦を焼く伝統のだるま窯を復活し、瓦の新たな居場所を創り続ける淡路瓦師」賞

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山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん

プロフィール

兵庫県西宮市出身、兵庫県南あわじ市在住

山田脩二・あわじかわら房 主宰

瓦工芸家・デザイナー、瓦焼き職人

カメラマン

ジャンル

伝統文化・工芸

瓦工芸家・だるま窯

瓦職人

経歴・実績

1939年  兵庫県西宮市甲子園生まれ。桑沢デザイン研究所修了後、(株)凸版印刷入社

1962年 フリーランスのカメラマンとなり、主に建築、美術など造形的な写真を取り続ける。同時に、日本各地の新旧が入り混じった村、町、都市の風景を撮影する。

1974年 「現代日本15人の写真家展」(国立近代美術館)を初めとして、多数の展覧会や個展に出展。

1982年 その写真は高い評価を得ていたが、職業写真家に「終止符宣言」をして、兵庫県淡路島の瓦生産地、津井で粘土瓦の製造に従事する。

1984年 「フリー・カワラマン」となり、「山田脩二・あわじかわら房」を設立。

1991年 吉田五十八賞(特別賞)受賞

1992年 SDA特別賞受賞

2000年 「山田脩二のかわらの使い方」により「グッドデザイン中小企業庁長官特別賞」受賞

2007年 織部賞

2008年 日本建築学会文化賞

主な著書

「山田脩二・日本村1969~79」 (81年 三省堂)

「カメラマンからカワラマンへ」 (96年 筑摩書房)

「日本の写真家第39巻山田脩二」(98年 岩波書店)

「瓦歴史とデザイン」-小林章男と共著-(01年 淡交社) など

動画 COREZOコレゾチャンネル

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その1) 「淡路いぶし瓦とだるま窯」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その2) 「カメラマン前夜」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その3) 「テロップづくりから放浪の旅へ」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その4) 「建築カメラマンへ」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その5)「日本の写真家15人に選出」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その6) 「カメラマンからカワラマンへ」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その7) 「東京は仕事場、家族は由布院」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その8) 「写楽に世界村掲載」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その9) 「カワラマンへの道①」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その10) 「カワラマンへの道②」

山田 脩二(やまだ しゅうじ)さん/カワラマン・あわじかわら房(その11) 「その土地固有の文化を残そう」

受賞者のご紹介

カメラマンからカワラマン?

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山田脩二(やまだしゅうじ)さんはカメラマンからカワラマンに転身された。井尾百貨店の井尾孝則(いおたかのり)さん亀の井別荘の中谷次郎(なかやじろう)さんや由布院の皆さんから、から「カワラマン」、「山田の脩(しゅう)ちゃん」というお名前は度々伺い、由布院玉の湯のアプローチや井尾百貨店に敷かれている敷き瓦も拝見し、山田修二さんの作品だと聞いていた。

その後、初めて訪れた福岡県八女市で、その日初めてお会いした当時、八女市役所の職員だった北島 力(きたじま つとむ)さんから二次会のお誘いを受け、町家カフェに連れて行って頂いた。

一杯やっていると、隣の席から「カワラマン」だの、「山田の脩(しゅう)ちゃん」だのという言葉が何度も耳に入って来た。北島さんの知り合いだとのことで、「山田の脩ちゃんというのはカワラマンの山田脩二さんのことですか?」と尋ねてもらったら、その方は、八女で酒屋を営んでおられる高橋 康太郎(たかはし こうたろう)さんとおっしゃって、由布院の井尾百貨店さんとも取引が有り、そのご縁で、山田さん、井尾さんとは一緒に飲んだりして、よくご存じだとのことだった。

いろんな人から聞こえてくる「山田の脩(しゅう)ちゃん」って?

さらに、2011年、徳島県の林業家、三浦 茂則(みうら しげのり)さんのご自宅に伺った際に、帰路、墓参りで淡路島に立ち寄るという話をすると、「淡路島?淡路島なら、山田の脩ちゃんは知っとるだろ?」と、伝統建築の関係でお付き合いがあるという三浦さんご夫妻からも山田脩二さんのお名前を伺った。

「んー、世間は狭い、何かのご縁かもしれんし、一度、お目に掛かってみたい」と思い、淡路島滞在中に三浦さんから連絡をして頂いたところ、

「ずっと出掛けていたけど、昨日、だるま窯の火入れも終わったので、今日なら空いていますから、どうぞお越し下さい。」とのことで、ご自宅にお邪魔した。

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淡路島には年に何度も訪れていたが、初めて行く住所で、スマホのナビで迷いながら、小高い丘の上にあるいぶし瓦で葺いた木造のとっても雰囲気のある家屋に辿り着いた。辺りは山田脩二さんの写真のようなのどかで懐かしい風景だ。だるま窯とおぼしき窯があり、外構にも、瓦塀や敷瓦、山田脩二さんの作品が点在していた。

「この家、寒いでしょう?私たちはすっかり慣れちゃいましたけどね。」と、奥様がお茶を出して下さった。

見覚えのある瓦コースター

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その湯のみに敷かれた瓦コースターには見覚えが・・・。いつもお世話になっている、2000年に淡路で開かれた「淡路花博」に合わせて開業したホテルのバーのコースターは山田脩二(やまだしゅうじ)さんの作品だったのだ。

ホテルに戻って、ホテルの方にその話をすると、「先生には開業当時からお世話になっていて、ホテルの敷地内にも先生の作品があります。」とのこと。確かに気をつけて見ると、応接室には飾り瓦が飾ってあり、フロントのペン皿も山田さんの作品である。

山田さんは淡路だけでなく、全国的にも有名人で、マスコミの取材も多く、淡路の旅番組にもよく登場されているようだ。

「先日、『山田脩二 日本旅 1961ー2010』という写真集を出したので、あちらこちらからお座敷にお声が掛かり、うろうろ飲みに行ってました。由布院にも寄って井尾さんたちと飲みました。」

「実は昨日、だるま窯の火入れをしまして、一晩中、火の番をしないといけないので、徹夜ですよ。もっとも火の番は学生さんたちが来てやってくれたので、僕は飲んでいただけですけどね。」

ひとしきり、ここに至る経緯をお話しして、一番お聞きしたかった由布院の皆さんとのご縁をお伺いした。

「主人が東京でカメラマンをしていた頃、由布院が気に入って、10年位住んでいたんですよ。いつも仕事で出掛けていて、ほとんど母子家庭状態で、心配して、中谷さんや井尾さん達、皆さんが良くして下さって・・・。」と奥様。「ハハハ、たまに戻って来て、飲み会で家族の近況を聞いて、また出掛けていました。」とのこと。なんとなく納得。

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そして、ご自宅の並びにあるだるま窯を案内して頂いた。金具を使わない見事な伝統工法で建てられた小屋屋根の下に、だるまさんが背中合わせに並んだようにこんもりした土の山。これがだるま窯で、中には「いぶし瓦」が沢山並んでいるそうだ。

「もう少し温度が下がらないと開けられませんが、窯を開けた後、サツマイモを入れておくと美味い焼き芋が出来るんですよ、残念でしたね。」とのこと。

カワラマンになった理由

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日本有数の建築カメラマンだった頃には、建築雑誌に載せるためには、それらしい写真、建築家に受ける写真を撮る必要があり、そういうことに煩わされることに嫌気がさしたのと、瓦や畳や日本の伝統文化、原風景が消滅していき、軽い建築ばかりが世にはびこり、撮るものがないと思うようになって、それならば、自分がつくる側になって、子供の頃からの夢だった瓦を焼こうと、作家や大家に弟子入りするのではなく、生産地の淡路島で、時給700円の瓦焼き職人修行から始められたそうだ。

「だるま窯」とは?

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淡路島に来た頃には、まだこの津井には200基位のだるま窯があったが、窯の下方の燃焼室にまきを入れて焼き上げるため、下部ほど火力が強く、均一に焼くには、熟練の技術が必要で、次第にガス窯に取って代わられ、今ではこの窯を含めて全国に数基しかないそうだ。

1995年に発生した阪神・淡路大震災以降、瓦屋根への風評被害もあって、生産は減り続けているそうだ。危機感を募らせた山田脩二さんは「産地として生き残るためには、原点に立ち返り、地域の特色を取り戻さなければならない」と、2008年に有志の皆さんと「だるま窯プロジェクト」を立ち上げ、ご高齢の瓦職人の記憶や図面を頼りに、だるま窯を復活させたそうだ。

ご自分の子供を見るような目でだるま窯を見ておられる。瓦を焼くのと同様に、だるま窯つくりも楽しまれたに違いない。若手の淡路瓦職人の取り組みや作品がTVの報道番組で紹介されていたが、山田脩二さんの取り組みが地域の意識も変えつつあるのだろう。

「このだるま窯では一度に焼ける瓦は三百枚程度です。取って代った鉄製の釜なら千枚焼けるので、同じ数を焼こうとすると、三度焼かなくてはなりません。非効率な上に、火力の調整が難しくてね。でも、焼きムラが出るから味も出るんです。このくにうみ、淡路で美味しいタマネギが採れるのも、タマネギ栽培に適したいい土が豊富にあるからです。瓦の原材料も土。瓦に適した土もたくさんあるので瓦づくりも盛んになりました。土の瓦は土の窯で焼いてやった方がいいんです。」

山田さんが考える瓦の復活活動とは?

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「僕はね、自分が焼いた瓦を飾られるのは気恥ずかしくてね、瓦は元々、雨露をしのぐ屋根を葺く実用的なものでしょ?ごく日常的に使ってもらった方が嬉しいんですね。僕が飾り瓦を焼いたり、お客さんに自分でデザインした瓦焼き体験をしてもらったりしているのも『瓦っていいね。』と思ってもらえば、いつか家の屋根を瓦で葺いてもらえるかもしれない。気の長い話ですが、僕なりの瓦の復活活動なんですよ。だるま窯で焼ける枚数がだいたい1軒分を葺く枚数というのも何となくツジツマがあっていて、それはそれで理にかなっていたのかもしれないですね。」と、山田さん。

カワラマンの次はスミヤキマン

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山田さんはその作品でも、活動でも、お人柄でも周りの人々を笑顔にする人気者だ。カワラマンの次は炭焼マンを目指しておられて、夢はまだまだ続き、人生を楽しんでおられる。その為人と作品のファンが増えれば日本も少しは良くなるかもしれない。

もっとお話しをしたかったが、「今度は是非一緒に飲みましょう」と約束をしておいとました。1日も早く飲み仲間のひとりとして認めて頂けるよう日々精進したい方である。

後日、神戸の芦屋で個展を開くというご案内を頂いた。早速、ご連絡し、会場におられる日時を確認して、伺った。カワラマンとカメラマン、双方の作品が展示してあり、楽しませて頂いたその場で、まだ資料も案内も作成中だったが、コレゾ賞の概要を口頭で説明して、受賞のお願いをしたところ、

「あっ、僕でよかったらいいですよ。」とあっさりとご承諾頂いた。その上、厚かましくも、2012年度のCOREZO(コレゾ)賞の記念品を焼いて頂きたいとお願いしたところ、「飾り物ではなく、普段使って頂けるものにしましょう。」と快くお引き受け下さった。

COREZOコレゾ「カメラマンからカワラマンへ転身、いぶし瓦を焼くだるま窯を復活し、瓦の新たな居場所を創り続ける淡路瓦師」である。

後日談1.記念品のだるま窯からの窯出しの様子

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後日談2.第1回COREZO(コレゾ)賞表彰式

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後日談3.山田脩二さんの訪問

実は、山田脩二さんとお酒を飲んだのは、2012年12月のコレゾ賞表彰式・懇親会の時が初めてだったのだが、しばらくして、「僕が役員をしている鬼瓦の会があって、福知山に行くのですが、その帰りに寄っていいか?」と拙宅を訪ねて下さった。

あり合わせのつまみで杯を重ね、だんだん酔いが回ってこられたのか、

「オイ、平野、お前のようなバカなヤツが少なくなって、世の中がどんどん面白くなくなっているんだが、COREZO(コレゾ)賞の表彰式は久しぶりにおもしろかった。住まいを見れば、建てた人や住んでいる人の生きざまみたいなのが少しはわかる。三浦さんところの木で建てた家だと聞いていたから、それなりの家だとは思ってはいたけど、実際に見て、納得した。一応、瓦の記念品の見積りは渡したけど、最初から財団に寄付するつもりだったから、代金は要らない。」とおっしゃって下さって、その後、一切、代金は受け取って下さらなかった。

心底感謝である。

後日談4.山田脩二さんと行く徳島・高知3泊4日の旅

2013年2月、記念品を寄贈頂いたお礼にと、阿波池田の「四国酒まつり」にお誘いし、ついでに徳島・高知3泊4日の旅にご一緒した。

1日目は、阿波池田の「四国酒まつり」に行き、祖谷泊。2日目は、デザイナーの梅原真さんを訪ね、キッチン会議で宴会、大歩危泊。3日目は、真美山北村自然農園を訪ね、海陽町の三浦茂則さん宅で宴会、泊という日程だった。

阿波池田はたばこ産業で栄えた町。古い町並みやうだつが残る。特別に解放されていた酒蔵で蔵出しのお酒を頂き、古いお屋敷の瓦屋根を見ながら、本葺きと簡略葺きの違いや屋根の棟に積む「のし瓦(格式が高い)」等の話を伺った。

インチキ瓦でインチキ葺きの重要文化財って?

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「でね、重要文化財だとか何とかだとか云っておいて、インチキ瓦でインチキ葺きしてるのばっかり。ヘンな感じ・・・ってなのは、見ればわかるでしょ?そこだけ浮いてるからね。行政がよく許すねぇ。まぁ、所詮、木っ端役人がすることだから…。戦前の瓦は不揃いだが、風情があった。と云っても、地震なんかで壊れてしまえばただの粗大ゴミでね、もう作れないから、取っておけばいいのに、お金を払ってでも処分してしまうんだよね。」

「昔は新幹線に乗ってても、トンネルを抜ける度に風景が変わったでしょ?今じゃ、開発という名のもと、全国一律、へんてこなビルや家が蔓延って、地域性も個性もなくなってしまった。均一化は合理的で手間が省けて便利かもしれんが、瓦屋根を見て、ああ、瓦はいいなぁ、とか、なんかヘンだな、とか思うヤツが増えないと町はキレイになりませんよ。でもね、わからない人にはこんな話はしないよ、無駄だから、ハハハハ。」

責任のがれのために管理し過ぎた先にあるもの

「瓦も近代化によって、単なる工業製品になってしまった。品質基準ということでは一定の評価はできるけど、JIS規格の瓦がいい、というのはおかしい。建築基準法だとか、消防法だとかも、デタラメなのを規制するのはいいんだけれど、いいのまで規制しちゃう。お酒がその地域、地域で個性が違うように、瓦もその土地で眠っている土で焼くから、温暖な淡路の瓦と日本海の厳しい寒さに耐える山陰の瓦は違うし、当然、屋根の表情も違う。ヘンな規格で統一しようとするから、表情も何もなくなっちゃう。」

「責任のがれのために管理し過ぎると、古い文化を殺してしまい、新しい文化も生まれない。なにも古いのがいいと言っているのではなくて、ただ、どんな素材でも経年変化して行くわけだから、風化した時に美しいことが読める素材がいい。ヨーロッパの瓦でもいいものは真似て、それを越せばいい。けど、真似するときに自分のアイデンティティーやオリジナリティーを大切にしないと・・・。瓦も中国や朝鮮半島から伝わってきて、日本の風土やその土地の風土に合わせて進化してきた。安くて、品質がそれなりに一定ならば、◯クドナルドでも、◯ンタッキーでも、何でもいいというのがいけない。」

実際に行動を起こして維持する大変さ

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高知県本山町の北村太助さんの棚田を見たいとおっしゃるので、一緒に訪ねた。「この棚田の景観は素晴らしいですねぇ。写真を撮るのは簡単だけど、開墾して、耕して、維持するのはどんなに大変か・・・。何も知らないカメラマンごときが軽々しく撮っちゃいけませんよ。コレゾ賞の表彰式の時に北村さんにお会いして、スゴイ人だと思ったけど、実際に訪れて、この目で見るとさらにそのスゴさがわかりますね。」と、山田さん。

いつの間にかカメラマンになって40で辞めると決めていた

「僕はね、高校を出て、桑沢デザイン研究所という専門学校に入って、グラフィックデザイナーになりたかったんだけど、ならばと人生の先輩に勧められて、印刷工場に勤めて印刷の基礎を学び、次に、デザイン会社で、レイアウトまで考えながら紙焼き(現像)してるうちに、重宝がられて、写真も撮って、となって、いつの間にかカメラマンになっていた。」

「建築写真でもね、人が作ったものをただ撮るだけでなく、瓦でなくても、木でも、壁でも、障子でも、畳でも何でもいいんですけど、建築のひとつの素材に自分自身が関わって、その関わったものを写真に撮るのがカッコいいんじゃないかと思ってた。でね、40歳でカメラマンを辞めるって決めてたんですよ。2年ばかし遅れたけどね。」

新参者のカワラマンは、踏みつけられる敷き瓦から

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「あてもなく淡路に来たんじゃないんですよ。ずっと旅して、自分の好みの瓦の産地は探してたし、図書館や本で調べたり、いろいろ資料を調べて、役場にも問い合わせをして、津井に来たんですよ。時給700円のアルバイトから瓦を焼き始めて、新参者がいきなり屋根なんかに上がると、『頭が高い〜』って言われるからね、まず下に降ろして(敷き瓦)、『山田脩二の瓦だと?コノヤロー!、コノヤロー!』って踏みつけにされて、そのうちに立ち上がって、壁に貼れるようになって、余力があれば、屋根にも上がれたらいいなって、ハハハハ。」

最期は灰になって、ハイ、サイナラ

「瓦の次は炭だと思っててね、炭焼きする場所もあちこち旅して探してるんですよ。1箇所、いいところが見つかっていたのに、東北の大震災でダメになったんですけどね。それで、写真撮って、紙に焼いて、(瓦とか土管とか)土を焼いて、木を焼いて(炭焼き)、スミからスミまで焼いて、最期は灰になって、ハイ、サイナラってね、そんなのがいいね、ハハハハ。」

旅は、自分が稼いだお金と自分の時間でするもの

「こうして、酒を呑みながら、車窓からぼんやり風景を眺めるのが好きでね。悪いね、運転してもらってるのに・・・。自分が稼いだお金で、自分の時間で旅をして、いいものをたくさん見て、感じないと、見えるものも見えて来ないですよ。なんとか団体のなんとか視察旅行なんて全くダメですね。」

「いい風景、そこの風土を育んだ自然やその風土に馴染んだ建造物や造作物とか、祠やお地蔵さんなんかを自分の目で見て、『ああ、こんなの、いいなぁ』と感じる心や気持ちが大切でね、僕なんか、そんなのを見つけると、直ぐに酒屋に走って、そこにお酒をお供えして、手を合わせてからその酒を呑むんだけど、そりゃ、旨いよ。そのうち酔っぱらって気分が良くなると、裸踊りなんて始めちゃう、ハハハハ。」

素材感こそが存在感

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「旅をするのはいいんだけど、観光なんかに浮かれていないで、その前に、暮らしの中の身近なところで光と影を見つめることを日本中が忘れているように思いますね。自分の立っている位置、場所の素材感、風土感を持つこと、それぞれの地域がそれぞれの素材感を持ち続けることが大事で、そうして初めてモノや地域に対する独自のこだわりが生まれる。素材感こそが存在感なんです。」

立派な大酒飲みになれるか、ただの大酒飲みで終わるか

「僕ね、苦労といえるようなことは何もしていなくて、この歳になって、カメラマンにも、カワラマンにも何の未練もやり残したこともないんですよ。ただ、ただ、ひとえに、立派な大酒飲みになれるか、それともろくでもないただの大酒飲みで終わるか、大きな問題でね、日々、酒行ですよ、ハハハハ。」

その他、高校時代に担任の教師との間で葛藤があったが、母親の大きな慈愛に救われたこと、桑沢デザイン研究所に入って、同級生で8歳年長の僧侶でもあった山田耕雲さんに大きな影響を受け、おまけに得度まで受けたこと、熱心な兵庫県立美術館の学芸員の方が、5年掛けて「山田脩二の軌跡」展を実現して下さったこと、小布施の人々、由布院の共通の友人、知人、はたまた、写真家の篠山紀信さんとのエピソード等々、山田脩二さんを取り巻く人々とのなれそめまで、道中、運転手を気遣って、ずっと問わず語りをして下さった。

初対面の時からタダの大酒飲みではないと拝察していたが、融通無碍で豪放磊落な外面ととてもシャイで繊細な内面をかい間見せて頂き、また、カップ酒とパック牛乳を一緒に飲めば、胃の中で醗酵してヨーグルトになるから健康に良い?等々、酒の呑み方をはじめ、多くのことを学ばせていただいた。

そして、これをご縁にこの後もご一緒の旅を重ねることになるのだが、それは、追ってまたの機会に…。

 

後日談5.山田脩二さん、COREZO(コレゾ)財団専務理事就任

2013年10月、山田脩二さんが、「毒を食らわば、皿まで」と、COREZO(コレゾ)財団専務理事を引き受けてくださった。

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後日談6.第2回COREZO(コレゾ)賞表彰式

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後日談7.第3回COREZO(コレゾ)賞表彰式

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動画

 

 COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿;2012.10.28.

最終取材;2015.02.

編集更新;2020.12.09.

文責;平野龍平

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