宮本 貴史(みやもと たかし)さん/宮本農園・みやもと糀店

COREZOコレゾ「自然農××大豆××味噌×醤油ソムリエール=新しい化学変化を生み出す夫婦発酵旅」賞

宮本 貴史(みやもと たかし)さん

プロフィール

宮本農園・みやもと糀店

愛知県西尾市

動画 COREZOコレゾチャンネル

宮本 貴史(みやもと たかし)さん/宮本農園・みやもと糀店・牧 一心(まき いっしん)さん/愛知県西尾市ハズフォルニア「ハズフォルニアってなに?

受賞者のご紹介

「愛知県西尾市の西幡豆(にしはず)町って三河湾のちょうど真中あたりの海と山、両方の環境がある小さな町に、自然農で大豆や米をつくり、それを原料に味噌の仕込み講座を開き、農家と糀屋をやっている宮本さんって人がいるんだけど、実は、その人、昨年(2016年)の碧南の醤油サミットで小豆島のケリーちゃん(黒島慶子さん)と知り合って、結婚しちゃったんだけど、行ってみる?」と、日東醸造の蜷川社長にお誘い頂き、それは聞き捨てならん、とご一緒に訪問した。

なんと、期せずして、幸運にも、宮本さんとご結婚されて、今は、小豆島と西幡豆町で二拠点生活をしておられる黒島さんも小豆島から来られていて、お会いすることができた。

―宮本さんのご実家は農家なのですか?

いいえ、サラリーマンの家で、写真の専門学校を出たのですが、卒業しても、結婚式場の婚礼写真や披露宴の写真とか、スタジオで商品写真を撮るような仕事しかありませんでした。

表現としての写真をやりたかった、っていう思いもあって、自分探しに海外に放浪の旅に出かけて、インドなんかでの経験や自律神経の乱れから体調を崩したこともあって、漠然と無農薬で農業をやりたい、を思うようになりました。

それで、地元(三河安城)で農業研修できるところを見つけて、農業とアルバイトの兼業を始めました。

―農家申請は?

10数年前、こちら(西幡豆町)で農地を借りることができて、ちょうどその頃、僕のことが自給自足の雑誌に掲載されたこともあって、この西幡豆町に引っ越してきた時に、町長と役場の方がやってきて、町で農家申請をしてくれました。

―大豆やお米をやろうと思ったのは?

野菜を多品種つくって生計を立てるのは難しいことは就農した先輩方の話を聞いていたし、自分の性格にも合わないのは分かっていたので、大豆を僕のように中規模でやっている農家はほとんどありませんが、中規模なら、無農薬でやれるので、お客様がついて、増えて下さったので、自分のやるべき道はこれかなって、自然と需要と自分のやりたいことが合ってきた、って感じですね。

今、どんな農家でも米で生計を立てるのは難しいので、白米は自家消費だけで、それ以外は、糀の加工用で、あと、7種類以上古代米を栽培して「虹色米」として販売していますが、こちらは、白米の数十倍になるので、単位面積当たりの収量が白米の半分としても、十分採算が取れます。

―味噌を始められたのは?

まず、自分が食べる味噌は自分でつくりたいでしょ?そこからですね。

2000年から無農薬で農業を始め、最初は、自給分の野菜を作ることから始め、貸して下さるところが増えて、農地が広がり、米や大豆も作るようになって、それらを使った味噌を仕込むようになりました。

その内に分けて欲しいという方々が増えて、今では1トンぐらいの大豆をつくっていますが、2005年ぐらいから始めた味噌仕込みのワークショップには、年間1,000人ぐらいが参加され、7〜8割がリピーターです。

9kgと13.5kgのコースがあって、1家族が1年に消費する量が基本となっています。

今は、農繁期に農業をして大豆と米をつくり、農閑期の1月から4月の間に収穫物を使い、味噌の製造許可の必要がない味噌仕込みのワークショップを開催するというサイクルになっています。

―みやもと糀店というのは?

当初、糀は買っていたのですが、味噌の出来の一番の要は「糀」であることに気付き、発酵の世界に魅せられて、6〜7年前から自分でつくり始め、出来上がった糀に自信が持てるようになった3年ぐらい前から「糀店」も営むようになりました。実は、糀の製造許可は、自治体によっては必要なようですが、ここ西尾市の辺りでは許可自体が存在しないそうです。

—糀はどのようにつくるのですか?

種糀は種糀屋さんで購入しますが、水に浸けた米を蒸して、適温に温度が下がる頃合いを見計らって、種糀をつけ、糀菌が育ちやすい環境になるよう温度管理してつくります。ウチは規模が小さいので、元旦から4月いっぱいまで、毎日、3〜40kgぐらいずつつくっている、って感じで、夏は農作業をして、冬は加工品をつくる、糀づくりという昔ながらの農家のスタイルが、僕にとってはベストですね。

今は、味噌づくりに使われるだけでなく、塩糀や甘酒が若い女性に人気なので、糀は結構売れているんですよ。

—シェアハウスもしておられるとか?

はい、実は、去年(2016年)、この味噌、糀仕込みの工房と向かいの住居は、以前、住んでいた方から格安で譲ってもらいました。

住居の方は、築4〜50年なんですけど、リフォーム済みで、何もしなくても、後、数十年は大丈夫なぐらいで、ただ、当時、単身の身としては、広すぎるので、シェアハウスを始めました。

たまたま、その時に、家を出たいとか、シェアハウスに住みたいという人が何人かいて、声を掛けたら、4名集まり、今は、僕たち夫婦合わせて、5名と農作業を手伝ってくれるWWOOF(ウーフ)の方が1名住んでいます。

シェアハウスのお米や味噌は、基本、自分たちでつくり、野菜は忙しかったら、手伝いにきてね、その代わり、野菜代も込みの家賃、というスタイルです。

—今後は?

糀づくりの精度、レベルをもっと上げたいというのが大前提にありますが、せっかく醤油ソムリエールの彼女(黒島慶子さん)と夫婦になったので、小豆島流の醤油のワークショップをして、年間使う1/3は、自分たちで醤油をつくりながら、せっかく愛知には、全国的にも珍しい対極的なしろ醤油とたまり醤油という醤油があるので、醤油は味噌と違って、自分たちで仕込んでもなかなかいい蔵の味は出せないので、残りの2/3は、いい蔵からしろ醤油とたまり醤油を買って、愛知県の家庭に地元の食文化を取り戻しましょう、という活動もやりたいと思っています。

これまでお話ししたように、今まで、降って湧いてきたことを自分の中でどう上手く活かしていくかが、自分に課せられた使命のような気もしているんですよ。

—ところで、黒島さんが宮本さんと知り合ったのは?

(黒島さん)昨年(2016年)11月の醤油サミットで碧南を訪れ、イベント修了後、桶職人の原田君たちとこちらに来て、原田君が一人で喋った2時間だったのですが、いい人だな、素敵な人だなって、私は、宮本さんに惹かれて、どんな人かよく分からない内に、お付き合いがスタートしました。

—醤油ソムリエールを始めたのは?

(黒島さん)私、子供の頃から絵を描くのが好きで、美術系の高校から京都造形芸術大学に進学し、3回生になって、社会に出て何をするか考え始め、私が表現することが社会の役に立って、私だからできること、表現の対象を見つけようと思い、自分のルーツである生まれ育った小豆島のことを改めて調べてみることにしました。

私の実家は16件の醤油蔵がある「醤の郷」にあり、先祖代々も醤油に携っていたので、自然と醤油のことを調べることになり、探れば探る程、客観的に見ても、小豆島では、素晴らしい醸造調味料である醤油を造っていることを再認識しました。醤油は日本食の原点であり、味付けの要であり、その価値にやっと気付いたのが、20歳の時でした。

それで、「これは素晴らしい醸造調味料だから、これからもつくり続けてください。」とお願いしても、「儲からんから続けられん。」という返事が返って来て、「こんなええもんが何で儲からんの?」という疑問が湧いて来て、他の蔵で尋ねても、「生まれ変わったら醤油屋はやりたくない。」という声が多かったんです。

「何でこんなええもんが儲からんの?」と考える中で、この世の中全体で、いいと思えるものが残らない仕組みになりつつあることに気がついたんです。

仮に、醤油を選びたい、と思っても、今では、高橋万太郎さんがやっておられる職人醤油がありますが、当時は、選ぶ方法がなく、スーパーで並んでいる醤油を値段で比較するしかなかったんで、100年後の子供達も美味しい醤油で美味しい食事ができる楽しい家庭団欒ができるようにと考え、生産者と消費者のつなぎ役になろう、と決心しました。

大学を卒業したら島に戻るつもりでしたが、母から大学出たてのあなたなんて何の役にも立たないから、社会経験を積んでから、戻って来なさい、と云われ、それもそうだな、と思いました。

小豆島は、島なので、物流が重要なポイントですが、インターネットの時代になったので、Webを知れば、今後、何かの役に立てるかもしれない、と思い、大学の先生に相談して、全く、パソコンも触れなかったのに、東京のWebデザイン会社に就職しました。

入社時に、3年間、一生懸命働いて地元に戻りますと宣言した通り、退職し、グラフィックデザインの勉強もしておこうと、高松のデザイン会社で働いた後、2009年に小豆島に戻り、起業しました。

—醤油ソムリエールを名のり始めたのは?

とにかく勉強が必要だと思い、大学三回生の時から就職後も、小豆島の醤油蔵に何度も何度も足を運んでいました。その当時は、ひっそりと単純につなぎ役ぐらいの意識でしたが、インターネットで情報発信をしたり、問い合わせがあったら、自分がわかる範囲で答えたりしていました。

島に戻って起業した時点で、小豆島の醤油の情報発信を始めて既に6年が経過しており、私が情報発信していることは島では知れ渡っていて、島での仕事も2件決まっていましたし、その後も有難いことに営業することなく、仕事の依頼が入っています。

私が戻った2009年の10月に小豆島で醤油サミットが開催され、醤油屋さんの飲み会があったのですが、その時、既に醤油ソムリエを名乗っておられた高橋万太郎さんも参加されていて、私は、「まだまだ、醤油ソムリエを名のれる程ではありませんが、それに近い活動をしています。」と自己紹介したところ、参加された醤油屋さんたちから、「名のれ、名のれ、」って云われたことから、ソムリエは男性名詞なので、醤油ソムリエールと名のり始めました。

—宮本さんとご結婚されたことで、家族ができ、また、農業や味噌、糀の他、活動範囲が広がったと思いますが、今後の活動は?

大学三回生の時につなぎ役をやると決めて、宣言して、島は狭いので、逃げも隠れもできませんし、後には引けない状況になってしまいましたが、納得するまでやり遂げたいという使命感と意地もあります。私の活動の原点は、醤油蔵へ足を運び、情報発信をすることです。そうすることで仕事の依頼も入って来たので、これからも続けていきます。

情報発信を継続することで、それに関連した需要が膨らんで、今では、セレクトした商品の卸問屋、醤油を使った商品開発、ラベル、パンフレット、Webサイトの企画・制作、出版社からの企画依頼、記事の取材、作成、醤油を使った料理レシピの開発・作成など、多岐にわたっています。

また、全国には、いい醤油がたくさんあって、それぞれ個性があります。小豆島の醤油だけでなく、全国のいい醤油の中から、消費者の皆さんが自分にピッタリの醤油が選べるよう、生産者とをつなぐ情報発信を続けていきます。

2拠点生活をして、小豆島での活動は続け、新しい活動や仕事にもチャレンジして行きたいと思っていますが、家族が増えた時にどうするかは、模索中です。

(蜷川さん)ウチは、濃口醤油をつくっていないので、そばつゆ用の醤油は、ある醤油屋さんから仕入れていたのですが、事情があって仕入れられなくなり、醤油が変わるとそばつゆの味が変わってしまうので、困って黒島さんに相談したら、即答で以前の醤油の個性と非常に良く似た蔵元さんの醤油を紹介してもらい、とても助かったことがありました。

農家と糀店を営む宮本さんと醤油ソムリエールである黒島さんの夫婦ユニット「めおとと」は、「新婚旅行という名の発酵旅」と称して、全国各地の蔵元に挨拶と勉強の旅に出ておられる。期間は3年、「新婚さんいらっしゃい」に出演できる期間と合わせておられるらしい。

宮本さんと黒島さんの出会いから、新しい化学変化(発酵)が生まれそうだ。

COREZOコレゾ「自然農×米×大豆×糀×味噌×醤油ソムリエール=新しい化学変化を生み出す夫婦発酵旅」である。

最終取材;2017年6月

初版;2017年11月

最終編集;2017年11月

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