桧尾 道子(ひのきお みちこ)さん・良和(よしかず)さん/よびごと案内人

COREZOコレゾ「加羅宇多姫伝説等の地域資源を掘り起こし、地域交流も活性化する、よびごと案内人」賞

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桧尾 道子(ひのきお みちこ)さん

桧尾 良和(ひのきお よしかず)さん

プロフィール

山城町出身、西祖谷山村在住

「よびごと案内人」 発起人 中心メンバー

道の駅にしいや パートタイム勤務

ジャンル

観光・地域振興

国内ガイド・語り部

経歴・経歴

2007年 新しい地域観光の魅力紹介コンテスト「加羅宇多姫伝説」2位入賞

2009年 よびごと案内人 組織立ち上げ 活動開始

受賞者のご紹介

「よびごと案内人」とは?

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檜尾 道子(ひのきお みちこ)さんは、徳島県三好市西祖谷山村のの発起人であり、中心メンバーの1人である。2011年、「大歩危・祖谷」地域の観光地域振興の調査事業で「よびごと案内人」の活動を調査、取材をさせて頂いた。

祖谷は四国のまんなか辺りの山あいにある。平家落人伝説が数多く残り、かつては道路事情が悪く、「秘境」と呼ばれていた。実際、檜尾さんのご自宅は標高700m以上の集落にあり、ご主人が子供の頃には、小学校まで30分、最寄のJR大歩危駅まで1時間かけて歩いていたそうだ。それは往きの下りの話で、帰りはその倍近く掛かったそうだ。

「よびごと」とは、祖谷地方でまだ電話が通じる前に使われていた連絡手段のこと。「大歩危・祖谷」は、急峻な山々にへばりつくように、家々がその上下、左右に点在している風景が特徴的であるが、それらの家々や谷向こうの家々に大声を出して、用件を次々に伝えていた頃の伝達方法の呼び名である。「呼ぶこと」から転じたらしい。昭和40年代まで当地で実際に使われていたという嘘のような本当の話。

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「よびごと案内人」は祖谷在住の有志による有料ボランティア・ガイド組織で、当地を訪れて下さった皆さんに、このような山間地である祖谷の独特の文化や古い歴史、風景、風土を土地の言葉でお伝えし、案内しようと檜尾さんたちが中心となって2009年に立ち上げた。

「よびごと案内人」の主な活動は、「語り部」と「ガイド」である。「語り部」は、案内人各々の得意分野である祖谷の歴史や伝説、民話を話したり、民謡を唄ったりしている。地元の宿泊施設からの依頼で宿泊客対象に実施したり、お客様からの依頼でお泊まりになっている宿泊施設にも出張する。「ガイド」は、車の利用に課題があり、かずら橋が起点の徒歩のコースの依頼が多い。おすすめは渓谷美が楽しめる「祖谷渓谷ウォーキングコース」だという。

「加羅宇多姫伝説」とは?

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檜尾さんは、隣の山城町から祖谷に嫁いで、祖谷に伝わる「加羅宇多(からうた)姫伝説」をばあちゃんやご近所の人々から聞かされ、感動して、興味を持った。近所には、「加羅宇多姫」を祀る「子授かり・安産祈願」の「古宮神社」があり、檜尾さんも身籠った時には、お参りに行ったという。

子育てが一段落すると、その伝承を途絶えさせないよう、地元でも語り継がれるように語り部をしたいと思うようになった。

「加羅宇多姫伝説」について、村役場に行ったり、村史を紐解いたりして調べ始めたが、はっきりした記録や文献は残っていなかった。そこで、その伝説にまつわる伝承が残っているであろう地区のお年寄りたちに尋ねて廻った。その加羅宇多姫が辿ったであろう道も実際に歩いて検証を重ねた。

「加羅宇多姫伝説」で入選⁉︎

そして、2007年に新しい地域観光の魅力を紹介するコンテストがあり、「加羅宇多姫伝説」で応募したところ、そういう地域に伝わる伝承・伝説を掘り起こして応募したところはなくて、見事、2位に入賞した。それがきっかけとなって、郷土の伝説や民話、文化を語り継ぐのは大切なことで、それをするのはこの地で暮らす自分たちの役目だと思い、発起人の1人となって、よびごと案内人の組織を立ち上げた。

その「加羅宇多姫伝説」とは、後醍醐天皇の皇子である尊良親王(たかよししんのう)は元弘の乱(1331〜3年)に破れ、土佐の国に流された。その后である加羅宇多姫は身重であったにもかかわらず、親王を追って、祖谷から土佐に入ろうとした。当時は室戸岬を経由する海沿いの道か祖谷を経由する山越えの道しかなかった。途中、若宮様を出産するが、すぐに亡くなる。悲しみの中、土佐に向かい、杖立峠までたどり着いた時には、親王は土佐を脱出して、九州に逃れたという知らせが入る。

さて、加羅宇多姫と尊良親王のその後の運命は・・・?

続きは、実際に祖谷へ足を運び、「よびごと案内人」の皆さんの語りでお聞き頂きたい。悲しい物語が蘇って来るだろう。

「加羅宇多姫伝説」ガイドツアー

2012年9月に所用で大歩危・祖谷へ行く予定になっていたのだが、「こちらに来る噂を聞きました。ちょうどその頃、地元の古宮神社のお祭りにあわせて、加羅宇多姫伝説のガイドツアーを実施するのですが、参加しませんか?」とご連絡を頂いた。ご主人が釣った天然鮎を食べさせて頂けるならという条件で、1日前倒しして出掛けることになった。

前夜にはお約束の天然鮎を3匹をおいしくご馳走になった。ツアー当日はあいにくの雨模様だったが、地域最大の温泉・宿泊施設「秘境の湯」に集合して、「将軍神社」→「七人塚」→「桜神社」→「若宮神社」→「五所神社(大杉)」→「古宮神社」という、主に加羅宇多姫が祖谷に入ってからの足跡を辿るコースだ。

マイクロバスで狭く険しい坂道を上って行くのだが、慣れない都会の人が運転するにはかなり厳しい山道だ。途中、何箇所かで切り返しをしながら、「将軍神社」の参道入口に到着した。

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参道は急な石積みの階段で、清掃をしながら登ったのだが、雨で濡れた落ち葉が積もり、足元が滑る。神社は標高1446mの中津山への登山口でもある。山頂まで登るのは約2時間掛かるそうだ。身重の「加羅宇多姫」はその中津山を越えて祖谷に入り、「将軍神社」で休息をとったと伝えられているが、妊婦さんがこんな急な石段や山道を昇り降りできたのなら、昔の人は今よりはるかに足腰が強かったに違いない。

その後、一宇(いっちゅう)という西祖谷山村の中心地まで下る途中で、「若宮様」を出産するが、早産ですぐに亡くなってしまう。その場に姫が置き忘れた桜の杖が大きな桜となり、「桜神社」と呼ばれるようになったと伝えられる。

「将軍神社」も「桜神社」も田ノ内という集落にあり、前年にも訪れたことがあるのが、それはもう立派な限界集落なのである。どちらの神社も集落の住民の高齢化により、ご神体は、今では参拝し易い別の神社に移されているというが、ネットで調べても何の情報もヒットしない。地元でもご存知なのはご高齢の方ぐらいだそうだ。

「七人塚」の石碑には笑い話のような内容も刻まれているが、伝説とは関係のない話なので割愛させて頂く。

「このお家は去年まで80いくつのおばあさんが一人で住んでおられました。」、「ここのおばあさんは今年病気をされて、入院中です。」、「この専用の橋を渡って、徒歩で20分登ったところに80いくつのおばあさんが一人で住んでおられます。」と聞いていると、この田ノ内地区は、ほとんどが80いくつのおばあさんの1人暮らしのようだ。

このように「よびごと案内人」のメンバーの皆さんは、集落の住民状況にも詳しく、今のこの地域の生活が伺われる。地道に集落に残るお年寄りたちに伝承を尋ねて廻ってこられた副産物だ。

つい40年程前まで、本当に秘境だった…

その田ノ内地区のガイドをして下さったのは、案内人の森下 琴美(もりした ことみ)さん。昭和38年(1965年)に西祖谷山村有瀬(あるせ)から一宇に嫁いでこられた。当時は、徒歩で山越えするしかなかったという。

結婚式当日は、雨の中、傘をさして、5時間も歩いて嫁入りをしたそうだ。一宇に1軒だけあった髪結屋さんで、1着しかない花嫁衣装を着せてもらい、同じく1つしかないカツラが小さくて、式の間、ずっと頭が痛くて辛かったそうだが、披露宴の後はエプロンを付けて、後片付けしたことを昨日のことのように思い出すという。都会の者が聞くと、とても、今からたった50年程前とは思えない話である。

その後、昭和49年(1974年)になって、大歩危に通じる有料の祖谷渓道路とトンネル(1998年より無料、現県道45号)が開通して車が通行できるようになるまでは、本当に「秘境」だったのだ(1920年には祖谷地区と池田方面を結ぶ祖谷街道は開通している)。

森下さんは、「加羅宇多姫伝説」を檜尾さんたちと調べたり、勉強しているうちに、ご自分が加羅宇多姫と同じ山道を歩いて嫁入りしたことに気づいた。親しみを感じると同時に、「どんなに大変な思いをして祖谷に入られたのか」と、さらに深く知りたいと思うようになったという。

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その後、一宇の外れにある「若宮神社」へ。案内人の四宮 泰貴(しのみや やすたか)さんがガイドをして下さり、亡くなった「若宮様」をお祀りしているとのことで、お参りをした。道路を挟んだ向いの西祖谷中学校では、この校舎での最後となる運動会が開催されていた。来年度から、この場所よりJR大歩危駅に近い旧西岡小学校跡に移転するそうだ。

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途中、吾橋(あわし)という集落にある五所神社に寄り、主幹周り12m以上、樹高45m以上の樹齢1000年を超える大杉を見学して、最終目的地の古宮神社に向かった。こちらも地元の人に連れて来てもらわないと他所者が自力では行き着けそうもない。この辺りの山間道では役に立たないナビも多いし、ヘタなナビではエラい目に遭う。

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「加羅宇多姫」も産後の養生がままならず、古宮の地で亡くなった。我が子を亡くし、親王にも会えず、失意のどん底にあったはずなのに、息を引き取られる前に、「この地を訪れる人々には元気な子供が生まれますように。」と言い残された。村の人たちは姫の墓の傍に社を建てて、御霊を祀り、「子授け、安産祈願」の「古宮神社」となったと伝えられている。

前年、訪問した時にはかなり荒廃していたが、その日のお祭にあわせて、集落の人々が清掃、手入れをし、樹木も間伐したそうで見違えるようだった。数十年前は縁日も出るぐらい賑わったそうだが、今では氏子も5〜6軒しか残っておらず、その日は、皆さんそろって神事をしたそうだ。

古宮神社の裏山は古宮嶽という岩山で、とても厳かな雰囲気がある。檜尾さんにガイドをしてもらって、お参りした後、社の後ろにある姫のお墓にも参ろうとすると、サプライズ?で岩陰から南北朝時代の旅装束の女性が出てきて驚いた。吾橋婦人会で結成したボランティア劇団「吾橋座」の皆さんで、「加羅宇多姫伝説」の創作劇の一部を披露して頂いた。今後、地域のイベント等でも上演をしていくそうだ。

雨が上がって、境内でお弁当を頂いたのだが、地元の皆さんが、祭のお神酒や手作りのそば米雑炊(お米の代りにそばの実を使う)を振る舞って下さった。「秘境の湯」に戻り、ツアー終了。入浴券が付いていて、温泉に浸かるのもアリとのことだった。

で、このツアー、何れも一度は行ったことのある所だったので、正直、あまり期待をしていなかったが、案内人の皆さんのガイドで巡ると、ひと味もふた味も違って、なかなかよかったのである。まだ慣れておられないようで、段取りの悪いところもあったが、そんなガイドのテクニックより、素人っぽさというか、案内人の皆さんのお人柄の良さが丸出しで、とってもええ味を出しているのだ。

何より、一生懸命で、「祖谷が大好き」という想いが伝わってくる。行程も、特に「加羅宇多姫伝説」に興味を持たない人でも、古と今の祖谷の生活、文化、歴史等々を垣間見ることができて、そのポテンシャルは高いと思う。実際に暮らしておられる方と少しでも交流ができたり、せっかく先達たちが開墾した段々畑に植樹したままの放置林が多く、地域が暗い印象を持ったが、それらを間伐して陽の差す山里に戻すことができれば、さらに魅力は高まるだろう。

地元の主婦やボランティアの皆さんが地域の伝承を掘り起こす

祖谷というと、平国盛や安徳天皇にまつわる平家の落人伝説が有名だが、「加羅宇多姫伝説」は地元の主婦やボランティアの皆さんが地域に伝わる平家伝説以外の伝承を掘り起こしたことに意義がある。この伝説の物語は、地元の教育委員の方々も知らなかったそうだ。檜尾さんの出身地でもある山城町の住民の皆さんが地元の伝承を掘り起こした「妖怪伝説」に通じるものがある。

檜尾さんには恵伊羅御子(えいらみこ)の墓やフクジュソウが満開の自生地(場所はフトドキモノがいるため内緒)等にも連れて行ってもらったことがある。恵伊羅御子と小野老婆は約1200年前に入山した祖谷の開祖といわれているそうだ。そんな隠れた地域の資源が沢山あるはずで、さらに掘り起こして、地域の魅力度アップに繋げてもらいたいと思う。

「大歩危・祖谷」を繰り返し観光客が訪れる観光地にするには、定番である「大歩危峡遊覧船」と「かずら橋」の後に続くことのできる観光資源を掘り起こし、その魅力を磨くことだろう。

「大歩危・祖谷」を訪れて、最も印象的で、誰もが気になるのは、急峻な山々に粘り着くように建つ家々の風景である。「大歩危・祖谷」の観光従事者に対するアンケート調査をしたことがあるが、お客様からの質問で一番多かったのも、その風景を見て、「あそこに住む人はどんな暮らしで、昔はどんな生活だったのか?」だった。

祖谷には都会からの観光客が自分の車で巡り難い観光資源がたくさんあるので、他と差別化ができ、「よびごと案内人」等のガイド業が活躍できる場が広がっている。「よびごと案内人」に協力したり、応援する地元の皆さんが増え、案内人を通じて、地元の生活者の方々と交流ができれば、観光客に喜ばれ、魅力度がさらに増すと思う。

今後、着地発信型の観光を担うのは?

祖谷の魅力のある観光資源は地理的に離れているため、車移動が必須であるが、タクシーを利用すると、お客様の負担が増えるので、車で案内するコースは今後クリアしなければならない課題も多いが、今後、着地発信型の観光を担うのは地域に根付いた「よびごと案内人」のようなガイド業やガイドだろう。

地元の小学校の「朝の活動」という時間に、檜尾さんはボランティアで、「加羅宇多姫伝説」他の地元に残る伝説や昔話の話し聞かせをしておられて、子供たちが学芸会で演目として演じてくれたり、大学生が研究のため「加羅宇多姫伝説」を聞かせて欲しいと訪ねて来たり、婦人会の創作劇が始まったりと、活動は少しずつ実を結びつつあるようだ。

「私たち、よびごと案内人のメンバーはほとんどが50代以上です。次の世代に引き継ぐ活動もして行かなければ、伝承は途絶えてしまいます。子供は正直で、覚えてもらおうと同じ話をしても、『それ、前に聞いた。』と、何度も同じ話は聞いてくれません。それでも、手を変え、品を変え、観光客にガイドをしたり、地元のイベントで創作劇を演じたり、案内人の出番を増やして、できることは何でもやるしかありません。小さなことでも積み重ねて、少しでも記憶に残ったり、興味を持って下さる人を増やすことが大切だと思っています。共感して一緒に活動してくれる仲間も増やして行きたいですね。」

次の世代に引き継ぐためには?

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「最初は、祖谷の歴史や伝説、伝承文化を残し、次の世代に引き継ぎたいと始めたのですが、地域が存続しなければそれも叶いません。今日もご覧になられたように、祖谷も過疎化が進んでいます。子育て中はお互いに忙しくて、主人とも話す機会も少なかったのですが、子供が巣立ってからは、老後のこともよく話すようになりました。ウチは標高700mのところにあり、秋からのシーズンには雲海もよく見えます。手作りパンを焼いたり、民泊もしたいね、なんて話をしていますが、それも叶うように、祖谷や私たちの集落にも観光客の皆さんにたくさん訪れてもらえるようにしないと、ますます寂れてしまいます。」

「祖谷は自然が豊かなだけでなく、歴史があり、伝説や伝承文化も豊富ですといくら訴えても、実際に訪れてもらわないと地域は潤いません。今回のようなツアーに1人でも多くの観光客の皆さんに興味を持って参加して頂けるよう、単発ではなく、継続して集客できるよう、内容をもっと充実して、告知方法にも工夫しなければと思います。」

「ボランティアでは若い人たちが興味を持ってくれても、活動は続きませんし、この地域に仕事がないと若い人も残れません。『よびごと案内人』の活動が持続できるように、1日も早く、経済的にも自立できるような事業にしたいと思っています。今こそ、私たちの世代ががんばらないといけませんね。」と、檜尾さんはニッコリ、キッパリ、おっしゃった。

コレゾ賞の趣旨をご説明し、受賞のお願いをしたところ、

「来年、別の場所で開催するんだったら、その時にもらえた方が嬉しいねって、おとーさんとも話してるんですけど・・・。」とおっしゃるので、

「来年はないかもしれませんよ。」と申し上げると、渋々、ご承諾下さった。

COREZOコレゾ「加羅宇多姫伝説等の地域資源を掘り起こし、地域交流も活性化する、よびごと案内人」である。

※2020年1月現在、三好市役所を退職されたご主人の良和さんも一緒に活動されている。

後日談、古宮神社のお祭りを復活し、加羅宇多姫伝説の寸劇を上演

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2013年9月、檜尾さんたちは、地元の有志と加羅宇多姫伝説保存会を結成して、加羅宇多姫伝説を伝える寸劇を創作し、古宮神社のお祭りで奉納、披露した。

COREZO(コレゾ)賞 事務局

初稿;2012.11.02.

最終取材;2013.09.

編集更新;2013.03.03.

文責;平野龍平

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